懐かしい匂いがした。
汗のしみついた防具の匂いだ。頭は手拭いで絞めつけられ、顔は面に覆われ、全身にずっしりと重さを感じる。
ここは道場で、対戦相手が見える。
腰につけた藍染めの垂には「瀬口」の文字。その横に小さく「鷹」とある。
弟の鷹人だ。
ひとつ年下の弟は、自分とはちがって、剣道の素質があったようで、めきめきと頭角を現していた。
絶対に、負けられない。
隼人は気を引き締めて、竹刀を握り直す。
負けるかもしれない。
そんな予感があったのだ。
おなじ時期に剣道をはじめたのに。おなじように練習をしているのに。隼人のほうが年上だというのに……。
鷹人はぐんぐん伸びている。
弟に追い抜かれそうだ。
それがわかっているから、隼人は思わずにはいられなかった。
決して、負けるわけにはいかない、と。
竹刀を構えて、剣先を対戦相手の喉に向ける。
「始めッ」
負けたくない。
その気持ちが強かった。
だからこそ、攻めることができなかったのだ。
鷹人が声をあげ、ものすごい気合で、迫ってくる。
その切っ先をすんでのところで避けると、横にまわりながら、正面を切り、攻撃に転じようとする。
しかし、遅かった。
鷹人の竹刀が、左胴に打ち込まれる。
「ドウあり!」
衝撃は体だけでなく、精神をも揺さぶった。
先制されたことで、ますます心が萎縮した。
負ける。このままじゃ、負ける。負けたくない、負けたくない……。
隼人はもうそれ以外、考えられなかった。
そこに、メンが打ち込まれて……。
額に感じたのは、ぷにぷにとした感触だった。
目を開けると、ネコ太郎がいた。
ネコ太郎はその前足をひたすら交互に動かして、隼人を踏みつけている。
どうやら、先ほどから額に感じているのは、ネコ太郎の肉球のようだ。
「なんだ、ネコ太郎。おなかが空いたのか? こんなところを押しても、ミルクは出ないぞ」
隼人はあくびをしながら、身を起こして、ネコ太郎を抱きあげる。
目覚めたあとも、夢のなかの感覚がありありと残っていた。
まだ、剣道をやっていたころの……。
あの試合を最後に、隼人は剣道をやめたのだ。表向きの理由は、塾での勉強が忙しくなったことにしていたが、実のところ、弟に無様な負け方をして、心が折れたのであった。
弟は大学生になったいまでも、まだ剣道をつづけている。中学二年生のときの大会では準決勝まで進み、校舎に横断幕が飾られていた。隼人はそこに書かれた「祝」につづく文字を直視できなかった。毎朝、横断幕から目をそらすようにして、登校していたことを思い出す。
勝てなかった。
兄のくせに。
弟に……。
先日の飲み会で、霧越が話していたのだ。
雪吹は「勝つことより、負けないことを考えているのだろう」と。
その言葉が、かつての記憶を呼び覚ましたのかもしれない。
苦い記憶を……。
まずネコ太郎にエサをやり、それから隼人も自分の朝食を用意する。
朝食と言っても、いつもとおなじ食パンとバナナと牛乳だ。食パンは袋から取り出すだけ、バナナは手で皮をむくだけで、簡単に食べることができる。
食パンをかじりながら、スマホを見ると、陽花からメッセージが届いていた。
〈いま、電話していい?〉
昨日の夜はわりと早めに寝たので、通知に気づかなかったようだ。
〈おはよう。ごめん。いま、見た〉
すぐに返事を送ったが、既読にならない。
〈夜、帰ってから、電話する〉
〈何時くらいがいい?〉
つづけてメッセージを送ったものの、やはり、陽花は気づいていないようだ。
もしかしたら、昨日の夜とは逆に、いまは陽花のほうが眠っているのかもしれない。
まあ、そのうち、返事があるだろう。
隼人はそう考えて、出かける支度をして、会社に向かった。
***
編集者の主な仕事に「スケジュール管理」というものがある。
教科書を完成させる日は決まっており、絶対に動かせない。市販の本であれば、発売日がずれるということも起こり得るが、教科書においては許されないのだ。
隼人は自分のデスクに、工程表を広げ、パソコンと見比べながら、進み具合を確認していく。
教科書作りにおいては、本文だけでなく、図版や挿絵、写真など、さまざまな素材が必要であり、それらを手配して、期限までにそろえなければならない。仕上がった原稿や素材を整理して、紙面に配置する「割り付け」を行い、印刷所に渡す「入稿」にまでたどりつくことが、まずは編集者としてのゴールと言えよう。
たとえば「布製品を作ってみよう」のコーナーでは、本文には布の伸び方のちがいを説明する原稿を配置するのだが、その横に「指ぬき」や「巻尺」や「裁ちばさみ」や「リッパー」などの裁縫で使う道具の写真が必要であり、生徒が話しているイラストとふきだしをそえて「教科書を入れるなら、どんな素材の布がいいかな」とセリフを入れることになっている。
いくらレイアウトを決めたところで、本文や挿画がなければ、どうしようもない。
本文の執筆を依頼した著者から原稿をいただき、挿画を依頼したイラストレーターから絵をいただかないことには、白紙のままなのだ。
うーん、どうしたものか……。
パソコン内のデータを確認しながら、隼人はひとつ、溜息をついた。
困ったぞ、これは……。
本文の原稿は、ほぼそろっている。まだ完成原稿ではなく、編集会議で指摘のあった部分を著者に伝え、手直しを繰り返してはいるが、とりあえずはだいじょうぶだろう。
問題は、イラストなのだ。
何人か依頼したイラストレーターのうち、まだ連絡のないひとが……。
締め切りは、昨日だった。
ほかのひとたちは、みんな、締め切りに間に合うようイラストを提出してくれたというのに、このひとだけは……。
隼人はメールを読み返して、イラストレーターとのやりとりを思い出す。
入社後に挨拶のメールを送り、そのときにはすぐに返事があった。その後、一切、やりとりがない。遅れるなら遅れるで、一言あってもいいと思うのだが……。
隼人は困惑のなかに、いくらかの苛立ちも感じていた。
自分にできる仕事なら、自分でやればいい。だが、隼人には絵は描けない。自分が動くのでなく、ただ「待つ」のみという状態はもどかしく、そのストレスもまた苛立ちの原因となっているのだろう。
工程表を見つめながら、隼人は途方に暮れていた。
連絡したほうがいいのかもしれないけど……。
イラストレーターの名前は「MOON9」というのだが、なんと読むのかすら、わからない。
隼人が入社する前に、すでに教科書作りの一年目は始まっていたので、教科書の全体的な構成は決まっており、作業手順についても、雪吹がまとめてくれていた。隼人はその工程表に基づいて、仕事を進めている。イラストや写真も、すでに雪吹が発注を済ませていたところが多く、それを引き継ぐかたちとなった。
つまり、このMOON9なるイラストレーターと、隼人は会うどころか、話したこともないのだ。
隼人は顔をあげて、雪吹のほうをちらりと見る。
相談したほうがいいだろうか。
だが、いちいち聞くな、と思われそうな気もして、どうにも腰が引けてしまう。
締め切りを過ぎても提出しないイラストレーターに、連絡を取るべきか、否か。
一日は待ってみたが……。
催促をするタイミングがわからない。
実のところ、まだしばらく、イラストを待つ余裕はあった。
デッドライン、すなわち絶対に遅れてはいけない「本当の締め切り」は先方に伝えておらず、ゆとりを持たせたスケジュールになっている。
わざわざ催促しなくても、もう少し待てば……。
心はそちらに傾きそうになったが、隼人は首を横に振る。
いや、逃げるな。
守りに入ったら、勝てない!
隼人は立ちあがり、雪吹のデスクに近づいた。
「すみません。いま、お時間よろしいでしょうか。実は、締め切りを過ぎているのに、イラストがまだ提出されていなくて……」
事情を話すと、雪吹は表情を曇らせた。
「そうですか。ムーンさん、最近、お忙しそうだったから……」
雪吹は思案するようにつぶやき、言葉をつづけた。
「すぐ電話をして、進捗を確認してください」
電話、か……。
できればメールで済ませたかったが、上司の指示とあれば仕方がない。
「わかりました」
隼人はそう答えて、ふと、疑問に思う。
MOON9って、どう発音すればいいんだ?
「あの、お名前の読み方なのですが、ムーンナインさんで合っているのでしょうか?」
「いいえ。ムーンクさん、よ」
そう訂正されるのを聞いて、隼人は冷汗をかく。
電話するまえに確かめておいて、よかった……。
「本名は、たしか、大槻さんだったと思いますが、ペンネームのほうでお呼びしています」
隼人は自分の席に戻ると、話す内容をメモにまとめてから、電話をかけた。
何度かの呼び出し音のあと、女性の声がした。
「はい、大槻です」
女のひと、だったのか……。
ペンネームでは性別がわからなかったので、電話の向こうから聞こえてきた鈴を転がすような声に、隼人は一瞬、まごついた。
「あ、あの、こちら、ムーン先生のお電話でよろしかったでしょうか」
「そうですけど……」
「お世話になっております。大大阪出版の瀬口です。先日、お願いしたイラストなのですが、現状、どれくらい進んでいるのかということをおうかがいしたく……」
メモを見ながら、一気に話して、相手の反応を待つ。
「すみません……」
消え入りそうな声が、電話の向こうから聞こえてくる。
「全然、できてなくて……」
「えっ?」
思っていた以上に、事態は深刻なようだ。
「全然というのは、具体的に、どれくらいでしょうか?」
「本当に……、もう、無理なんです……。今回のお仕事は、なかったことにしてください!」
突然、大きな声が響いて、隼人は受話器を持ったまま固まる。
は?
なかったこと、とは?
「あのっ、もしもし、ムーン先生? ちょっと、なにを……」
「ごめんなさい!」
それだけ言って、電話は切れた。
隼人はあわてて、電話をかけ直したが、通じない。
すぐさま雪吹のところに行き、電話でのやりとりを伝える。
動転している隼人に対して、雪吹は眉ひとつ動かさず、冷静だった。
「では、イラストの仕様を変更しましょう。前回とおなじものを使えるところは使って、どうしても必要なものは急ぎでほかの方に頼むということで、確認を……」
指示を出されるが、隼人の気持ちはついていけない。
すぐには切り替えられなかったのだ。
仕事の納期に遅れるということだけでも信じがたいのに、まさか、すべてを放り投げてしまう人間がいるなんて……。
仕事なのに……。
「こういうのって、よくあることなんですか?」
隼人の質問に、雪吹は苦さを含んだ声で答えた。
「よくあることではないけれど、まったくないわけでもないです。ムーンさんは芸術家肌のように思えたので、いつか、こうなるのではという気も……。プロ失格なので、つぎからは依頼しませんが」
淡々とした口調で言って、雪吹は命じる。
「新規でイラストが必要なページをまとめて、一覧にしてください。急ぎで描いてくれそうな方に、こちらからあたってみますから」
隼人は自分の席に戻り、挿画のデータを確認をした。そして、資料をまとめたあと、雪吹のところへと持って行く。
雪吹はさっそくイラストレーターに電話をかけて、アポを取っているようだった。
その後、引き受けてくれるひとが見つかったので、打ち合わせの席には同行するようにと雪吹は告げてきた。
隼人は「わかりました」と答えながらも、胸にもやもやとしたものが残っていた。
代わりとなるイラストレーターを探せと言われても困ったと思うので、正直、助かったところではあるが、しかし、自分の仕事が中途半端になってしまったようで……。
もし、自分がもう少し早めに進捗を確認しておけば、スケジュールに遅れが生じることはなかったのだろうか。
雪吹から責められることはなかったものの、すっきりしない気分のまま、隼人はつぎの仕事に取りかかった。
***
一日の仕事を終えると、隼人は帰路についた。
スマホには陽花から返事があり、電車のなかで返信をする。
〈いまから帰るから、十時くらいに電話する〉
陽花からは、すぐに返信があった。
〈うん、待ってるね!〉
〈隼人くんの声、早く聞きたい〉
〈ひさしぶりに、いっぱい話そう!〉
可愛らしいイラストつきで、メッセージが送られてくる。それを眺めながら、隼人の頰は緩みっぱなしであった。
電車から降りたあと、家に帰るまえに、商店街に寄って、夕飯のための買い物をすることにした。
もはや行きつけと言えるであろう商店街の肉屋でコロッケとミンチカツを買う。メニューには「メンチカツ」と書かれているが、隼人はこの食べ物のことをミンチカツだと認識していた。
「コロッケ一個とメンチ一個で、百八十万円ね」
おっちゃんと呼ばれている店員がそう言って、手を差し出してくるので、隼人は代金を支払う。
「はい、お釣り、二十万円」
もちろん、実際の代金はそんなに高くない。
この関西のノリに、ツッコミを入れたほうがいいのか、いまだに隼人にはわからず、曖昧な笑いを浮かべながらお釣りの十円玉二枚を受け取る。
コロッケとミンチカツの入った袋をさげて、商店街を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「隼人くん、どこ行くん?」
振り返ると、流果がいた。そのとなりには、以前にも見かけたことのある女性が……。
「もう家に帰るところだけど」
隼人が答えると、流果はたずねる。
「買いもん?」
どうも隼人の耳には「かいもん」という響きが「開門」に思えるのだが、これは「買い物」を意味しているのだと、最近は理解できるようになった。
「そう。夕飯にコロッケを」
「いまから、ご飯なんやったら、ちょうどええやん。うちに来て、いっしょに、たこパーせえへん?」
「たこパーって?」
「たこ焼きパーティーのこと」
流果はそう答えて、後ろを向き、女性のほうを見あげる。
「なあ、すみれちゃん、いいやろ?」
「ええ、もちろん」
すみれはうなずいて、隼人に微笑みかけた。
「いつも、流果がお世話になってます。流果の母です」
ぺこりと頭をさげられ、隼人もあわてて挨拶をする。
「こちらこそ、流果くんにはいつもお世話になっていて……」
すみれはふんわりとした長い髪に、シフォン素材のワンピースを着て、若々しいというか乙女のような印象があり、以前に会ったときには姉だろうかとも思ったのだが、母親であったらしい。
「流果がよく隼人くんの話をしているので、ぜひ、うちにも遊びに来ていただければと思っていたんです。たこ焼き、お好きですか?」
すみれの問いかけに、隼人はうなずく。
「あ、はい。実は、あんまり食べたことないんですけど、大阪に来たからには食べたいと思っていました」
流果が歩き出したので、隼人とすみれもそのあとにつづく。
しばらく歩いて、マンションに着くと、流果はオートロックを解除して、エレベーターに乗りこんだ。隼人が住んでいるところに比べて、ずいぶんと豪華なエントランスのマンションだ。設備も充実していて、住み心地がよさそうではあるが、エレベーター内には「当マンションはペット禁止です!」という案内が貼られていた。
流果が玄関を開けて、なかへと入っていく。
「ただいまー」
「おかえり!」
部屋の奥から出てきたのは、すらりと背が高い女性だった。飾り気のないシャツに、細身のデニムを穿いて、腰にはカフェの店員がしているようなエプロンをつけ、片手に菜箸を持っている。
「遅かったなあ、もう準備できてるで」
「ごめーん、咲ちゃん。商店街で隼人くんと会ったから、連れてきてん」
流果に紹介され、隼人はおずおずと挨拶をして、玄関で靴を脱いだ。
「お邪魔します」
「おお、きみが隼人くんか! 流果から話を聞いて、会いたいと思ってたんや! よう来てくれたな。さあさあ、あがって!」
咲はうれしそうに言って、隼人に近づくと、
「そこ、洗面所やから、まずは手洗いうがいをして、ほんで、荷物はこのへん好きなところに置いてくれてええから」
このひと、淡路さんに通じるものを感じるな……。
咲に対して、隼人はそう思わずにいられなかった。
すみれからは大阪的な印象を受けなかったが、咲のほうはバリバリの大阪弁で、テンポが速く、押しも強く、将来はいかにも大阪のおばちゃんになりそうである。
洗面所を借りて、手を洗ったあと、隼人はスマホを取り出した。
〈ごめん。用事が入った。電話するの、遅くなりそう〉
陽花にメッセージを送って、リビングへと向かう。
テーブルの上には、すでにたこ焼きを作るためのプレートが設置されていた。
流果はエプロンをつけ、キッチンに立ち、たこを包丁で切っている。その横で、咲はボウルに入った生地をかき混ぜていた。
「隼人くんも、ビールでいい?」
すみれがそう言って、缶ビールとグラスを持ってくる。
「なんか、手伝いましょうか」
隼人の申し出に、すみれは首を横に振った。
「ええよ、ええよ。座ってて」
椅子に腰かけて、隼人は所在なくあたりを見渡す。
棚にいくつか写真が飾られていた。流果が赤ちゃんだったときのものであろう写真の横には、結婚式の写真を見つけた。
純白のウエディングドレスに身を包んだ女性がふたり、寄り添うようにして立っている。すみれはフリルが何重にもなって裾が大きくふくらんだゴージャスなドレスで、咲はすっきりとシンプルなスレンダーラインのドレスだ。
ふたりとも、ドレスなんだな……。
写真を見て、隼人は意外に思った。
咲のような長身の女性であれば、白いタキシードも似合いそうだが、どちらもウエディングドレスを着るというのも、またひとつの同性愛カップルのあり方なのかもしれない。
流果は「お母さんがふたり」と言っていた。
どちらがお母さん役で、どちらがお父さん役というわけではなく、お母さんがふたりいる家族なのだろう。
「隼人くん、これ、お願い」
咲に声をかけられ、隼人はそちらに顔を向けた。
「生地、流すから、たこを一個ずつ、入れてって」
「わかりました」
たこ焼き器の正面に立ち、隼人はじっとそのときを待つ。
「咲ちゃーん、油、やるで」
流果がそう声をかけて、たこ焼き器のプレートに油を塗っていく。
そして、すみれが火をつけると、咲はボウルを傾けて、生地を流し込んだ。なみなみと注がれた生地へ、隼人は一口大のたこをぽちゃんぽちゃんと落としていく。
「こぼれそうなんですけど……」
心配になって、隼人は手をとめた。
たこが沈んだ分、かさが増えて、生地はいまにもあふれそうだ。
「ええねん、ええねん。これくらい、たっぷりやないと、うまくまるまれへんから」
咲はいつのまにか、手に竹串を持っていた。
「ほら、もう、端っこのところ、固まってきたやろ」
竹串で固まりはじめた生地を十字に切ったあと、端の部分を折りたたむようにして、たこ焼き器の穴に入れていく。
隼人がたこをすべて投入すると、今度は竹串を渡された。
「はい、隼人くんもやってみぃ」
見よう見まねで、隼人も竹串を使って、生地をまるめようとするが、咲のようにうまくはいかない。生地を竹串でかきあつめて、たこ焼きを作ろうとしたものの、かなり穴からはみ出てしまった。
「難しいですね」
すると、流果が竹串を持って、隼人の作った不格好なたこ焼きをくるりと回転させた。
「こうやるねん」
何度かひっくり返しているうちに、たこ焼きのかたちが整って、まるいかたちになっていく。
「おー、さすが。うまい、うまい」
隼人も言いながら、竹串を片手にもう一度、挑戦してみた。
「うん、今度はわりといい感じかも」
ぎこちないながらも、隼人はどうにか、たこ焼きをひっくり返す。
「はよせな、焦げるで」
じれったそうに言って、咲は竹串を動かした。隼人がひとつに手間取っているあいだに、流れるような動きでたこ焼きをまるくして、驚きのスピードで仕上げていく。
咲の竹串さばきを見て、隼人はすっかり感心していた。
「プロみたいですね」
隼人が咲にそう声をかけると、横から流果がどこか誇らしげに答えた。
「咲ちゃんの唯一の得意料理やもんな」
「たこ焼きが料理と言えるかは、わからへんけどな」
咲は苦笑しつつ、竹串を動かす。
「料理は全然やから、いつも流果に任せてるし。でも、たこ焼きだけは作りまくったおかげで、唯一、流果よりうまいと言えるかも」
咲の言葉にうなずき、すみれがやわらかな微笑みを浮かべて、流果のほうを見た。
「流果の五歳のときの誕生日に、たこ焼き器を買ったんよね。それで、流果が大喜びして、たこ焼き大好きって言うもんだから、咲ちゃんが毎日たこ焼きを作って……」
「そうそう。あれで、たこ焼き嫌いになりそうやったもん」
流果はくすくす笑って、楽しそうに話す。
「いくら、たこ焼きが好きでも、毎日は飽きるやん? ほんま、咲ちゃんって、そういうとこ、あるよな。やりすぎやねん」
「だから、いまは月に一回のたこ焼きパーティーになったというわけ」
すみれの言葉を受けて、咲は真顔でうなずいた。
「たこパー三昧の日々で、身に染みたわ。パーティーは、たまにやるからええねんな。毎日がパーティーやと、特別感がなくなる」
「なるほど」
たしかに、そういう考えも一理あるかもしれない。
心のなかでつぶやいたあと、隼人が思い浮かべたのは、陽花のことだった。
遠距離恋愛になってしまって、なかなか会えない。しかし、逆に考えると、毎日のようには会えないからこそ、特別感があっていいとも言えるのだ。
「よし、そろそろ、ええ色合いや」
たこ焼きはどれも球状になり、こんがりと焼き色がついていた。咲は竹串を器用に使って、たこ焼きをひょいひょいと持ちあげ、皿に盛りつけていく。
「はい、隼人くん、ソース」
流果からソースを渡されて、たこ焼きにかけていると、すみれもマヨネーズを差し出してきた。
「こっちには、青のりとかカツオ節とかもあるから」
すみれがグラスにビールを注いでくれたので、隼人もふたりのグラスに注ぐ。流果だけはウーロン茶である。
「そんじゃ、かんぱーい」
「いただきまーす」
さっそく、たこ焼きを頰張ると、かりっとした香ばしさとソースの甘辛さが口に広がった。それから、とろっとした生地のなかに、たこの旨みを感じる。
「熱々で、めっちゃおいしいですね」
隼人が言うと、咲はうれしそうに笑った。
「二回戦もあるでー。どんどん、焼いていくからなー。いっぱい、食べてや」
和気藹々とした雰囲気で、たこ焼きを食べていたところ、咲が竹串で生地を整えながら、話題を振ってきた。
「隼人くんって、教科書を作る会社で働いてるんやろ。すごいなあ、頭ええんやな」
「いやいや、そんなことは……」
あわてて謙遜すると、質問を返す。
「咲さんたちは、どんなお仕事をなさってるんですか?」
「うーん。一言で説明するんは難しいんやけど、まあ、困っているひとの手助け? みたいな」
小首を傾げつつ、咲は言った。
「DV被害者のためのシェルターって、わかる?」
言葉として聞いたことはあるが、想像はできなくて、隼人は首を横に振った。
「いえ、あんまり」
「配偶者から暴力を受けたりとか、そういう困難を抱えた女性を支援する団体を運営してるんやけど、プライバシーの問題とかもあるし、くわしいことは話されへんのよ」
咲の口調から陽気さが消えて、シリアスな空気が漂う。
隼人にとって、DVという言葉はニュースで耳にしたことがあるくらいで、自分とは遠い世界のことのように思っていた。しかし、その被害者を支援しているひとが、いま、目の前にいることを知り、急に身近なものとして現れたことに、戸惑いを隠せない。
「そうなんですか」
なんとコメントしていいかわからず、隼人はすみれのほうへと顔を向けた。
「すみれさんもいっしょにその仕事を?」
「ううん。私はチェリスト」
答えながら、すみれは右手を横に動かした。チェロを弾いている動作なのだろう。
「えっ、音楽家ですか。すごいですね」
こちらは素直な感想を口に出すことができた。
「でも、オケに所属しているわけじゃないからね」
見えない弓を持って、チェロを演奏しているかのように、すみれは目を閉じて、体を揺らしながら答える。
「チェロだけじゃなく、ピアノの先生もやってるし、ジャズバーにも出るし。音楽のなんでも屋さんって感じ」
「いや、それでも、自分の好きなことを仕事にできるって、すごいと思います」
「すごいっていうか、こういう生き方しかできへんのよね、私たち」
すみれは目を開けると、咲のほうを見た。咲も、すみれのほうを見つめていた。そして、ふたりは笑みを交わす。
そのやりとりはとても自然で、ふたりがカップルだということを隼人は改めて認識したのだった。
流果が「学校に行っていない」という話を聞いたとき、親はどう考えているのだろうと隼人は疑問に思っていた。
しかし、このふたりであれば、無理に登校させようとしないのも納得できる気がした。
子供の自由な生き方を肯定する。
決まりや常識に縛られない。
枠にはめようとはしない。
それはとてもいいことであるように思えるのだけれど……。
隼人はちらりと流果のほうを見る。
流果はうつむき、たこ焼きを竹串でつついていた。
その横顔はどことなく、さみしそうにも見える。
とても仲の良いふたりの母親。
子供はひとり、流果だけ。
三人だと、ふたり組を作ったとき、ひとり余る。新人研修が三人で、女性ふたりが自然とペアになり、自分だけ男ひとりで余っていたので、そのときのことを思い出した。
流果が感じている孤独は、それとは比べものにならないと思うが……。
どちらが、本当の母親なのだろう?
おそらく、それは大事なことではなく、気にするのも失礼なのかもしれないが、隼人はどうしても考えずにはいられなかった。
「流果くんは……」
言いかけて、隼人はべつの質問をする。
「将来、なりたい職業とか、あるのか?」
流果は顔をあげると、少し考えこんだ。
「うーん、なにができるんやろ」
困ったようにつぶやいて、流果はつづける。
「会社で働くとか、全然できる気がせえへんし」
すると、咲が口を開いた。
「しっかり稼いでくれる相手をつかまえて、専業主夫になったらええやん」
その明るい声に、すみれもうなずく。
「そうそう。流果くんは家事万能だし」
ふたりの意見に、隼人も同意した。
「それもありですよね」
言葉ではそう言いつつ、すっきりしないような気持ちもあった。
本当に、それでいいのだろうか。
都合のいい結婚相手なんて、そう簡単に見つかるものでは……。
専業主夫というのも、ひとつの生き方であり、隼人はまったく否定しようとは思わないが、どうも手放しでは賛成できないような気もした。
しかし、なにが、どう引っかかっているのか、言葉にはできない。
自分の考えが整理できないまま、隼人はたこ焼きを口に入れた。
おなかがはち切れそうになるほど、たこ焼きをご馳走になり、ビールもたくさん飲んで、パーティーはお開きになった。
流果のマンションから出たあと、夜道を歩きながら、隼人はスマホを確認する。
陽花からはメッセージが何度も届いていた。
〈うん。電話、待ってるね〉
〈お仕事、大変そうだね。がんばって!〉
〈早く終わるように、エール送るよ~〉
〈お風呂、入ってくるね〉
〈お風呂、出たよ~〉
〈ネイル、乾かし中〉
〈やっぱり、電話、明日にしようか〉
〈もう遅いから、寝るね〉
〈明日、電話、待ってまーす〉
帰ったらすぐに電話をしようと思っていたのだが、陽花はすでに寝てしまったようだ。
〈ほんと、ごめん。明日、電話する〉
ユーモラスな土下座のイラストといっしょに、隼人はそうメッセージを送った。
☆☆☆
MOON9こと大槻萌音は、絵を描くことが好きだった。好きだった。好きだった。好きだった……はずだ。
だが、もう、思い出せない。
いま、わかっているのは、自分が「使いものにならない」という事実だけだ。
ベッドに横たわって、無為な時間を過ごす。
キーン……。
頭が痛い。甲高い音が聞こえる。いつもの頭痛だ。ストレスがマックスになると、頭のなかで音が響く。頭が痛い。この音が聞こえると、なにも考えられなくなる。頭が痛い。
キーン……。
頭痛を感じたときには、ハーブティーを飲んで、リラックスするといい。
いつか、だれかに、そんなアドバイスをもらって、戸棚のどこかにハーブティーもあるはずだけれど、気力が湧かない。
起きなきゃ……。
ベッドから起きあがり、やかんに水を入れて、コンロの上に置いて、火をつける。そして、ハーブティーをいれて、机に向かい、ペンを握る……。
やるべきことは頭ではわかっているのに、体が動かないのだ。全身がぐにゃぐにゃになって、どこにも力が入らず、腕を持ちあげることすらできない。
真っ黒な闇が、重くのしかかってくる。
以前、スマホで検索をしたときには、こういう精神状態のときには「楽しいこと」をするといいと書いてあった。
楽しいこと?
楽しいことって、なんだ?
学生時代には、授業中によく落書きをしていた。見つからないよう気をつけながら、ノートにこっそりと先生たちの似顔絵を描いていたものだ。好きな科目は、図画工作と美術で、ほかの教科はさっぱりだった。テスト期間が近づくと、勉強をしなくちゃいけないと思いつつ、ノートには絵ばかり描いていた。
ほかに好きなことはなかった。
絵を描くことが、唯一の楽しみだった。
時間を忘れて、熱中していた。
ただひたすらに、没頭していた。
先生にはよく「萌音ちゃんは、お絵描き上手だね」とほめられたけれど、両親は自分の娘を音楽の道に進ませたかったようだった。萌音という名前にも、その思いが込められている。幼いときから強制的にピアノの練習をさせられていたが、そちらの才能はまったくなかった。楽器を奏でるよりも、クレヨンや色鉛筆を握っているほうが好きだった。
好きなことを仕事にすれば幸せ。
そう思ったから、ずっと絵を描いていた。休まずに働いてきた。絵を描くことが好きで、楽しくて、集中して、ずっと、ずっと、描いてきて……。
その結果、いまは、空っぽ。
枯渇した。エネルギー切れ。なにも残っていない。
描きたい、と思えない。
たったひとつ、得意だと言えることだったのに……。
締め切りは過ぎてしまった。
描けないまま、この日が来てしまった。
才能がなかったのだ。
すべては、その一言に尽きる。
キーン……。
頭が痛くて、なにも考えられない。
キーン……。
そろそろ、連絡が来るかもしれない。
怒られるだろうか。
それとも、見捨てられるか……。
どちらにしろ、仕事はなくなる。
もう二度と、声はかからないだろう。
無価値だ。
絵を描けない自分に、価値なんかない。
このまま、消えてしまいたい。
ひとのかたちを保てず、どろどろに溶けて、いっそ、ベッドの染みに……。
そのとき、電話が鳴り出した。
藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。