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第3回

【変な奴やめたい。3】恐怖! イワシハンバーグ

ちいさい頃に住んでいた横浜市本牧の集合住宅からほど近い場所には、大きなショッピングセンターがあった。昔は「マイカル」という名前だったが、今その看板は全国でおなじみのイオンに挿げ替えられている。マイカルからイオンになるあいだに「サティ」という名前にもなっていた気がする。マイカル、サティ、イオン。いや、サティ、マイカル、イオンだったか。詳しくはわからないが、私たち家族は今もあそこをマイカルと呼んでいる。

そんな今は亡きマイカル本牧の一階には、近所の人々が日常的に食料品を買う“スーパー”と呼ぶような場所が設けられていた。私が住んでいた頃のマイカルにはまだそこそこの活気があり、日替わりでさまざまな特別販売がやってきては試食やサービスでお客を釣っていたのを憶えている。私は家族みんなでマイカルに行くのが大好きだった。カスタードの入った一口サイズの小さなたい焼きを買ってもらったり、上の階のゲームセンターでハローキティのポップコーンを作ったりするのが何よりの楽しみだったのだ。しかし、そんな楽しいマイカルでの思い出に、たったひとつ暗い影を落とすものがある。イワシハンバーグである。

ある日いつものようにマイカルに行くと、食品売り場の鮮魚コーナーの手前に見たことのない特別販売のブースが建てられていた。ぶら下がったオレンジ色の暖簾には「おいしい! イワシハンバーグ」と書いてある。その頃の私が「イワシ」というものは魚の種類だということをきちんと理解していたかどうか、今となっては正直怪しい。だが、ハンバーグは知っていたと思う。イワシはよくわからないけど、ハンバーグは好きだ。特別な日以外は滅多に外食をしない家庭に育った私は、幼稚園生にしてすでに立派な卑しん坊だった。「試食は食えるだけ食え」という座右の銘を誰に教わるでもなく胸に掲げ、マイカルで行われている試食を食い尽くさんとばかりに鼻息荒くパトロールをする日々。そんな“本牧の試食ハンター”こと私は、例のイワシハンバーグがやってきたあの日も当然、つまようじに一口サイズのハンバーグを刺した優しそうなおじさんめがけて突進した。

ケケケ……ブースの前に行ってちょっとくねくねすれば、2、3切れは食わせてもらえそうだ。このハンバーグはすべて私のものだ……。そんなことを思いながらブースの前まで行って、「大きすぎて落っこちそうだ」と評判の大きな瞳でおじさんを見上げた。無言で困ったようにくねくねとする私に、おじさんは見た目通りの優しい口調で「イワシハンバ―グ、食べるかい? おいしいよ」と声をかけた。フッ、計画通り。私はしおらしくうなずいて、おじさんが手に持っていたイワシハンバーグを受け取り、そのまま口に放り込んだ。

まずい。信じられないほどまずい。「これは私の知っているハンバーグではない」と気がついたが時すでに遅し。ちいさな口のなかでは、イワシの大群がとぐろを巻くように暴れ回っていた。魚魚魚……ッ……!! 生臭い! まずい──!!

みるみる涙目になる私に向かって、おじさんは「おいしいかい?」と笑顔で問う。おいしいわけねえだろばかやろう。にどとハンバーグを名乗るなよ。しかし、変なものを食わされた怒りが胸に満ちていくのに反し、異物をなんとか飲み込んだ私の喉は、か細い声で「オイシイ」と鳴いたのだった。おじさんは満面の笑みを浮かべて「そうか! おいしいか! もっと食べていいよ!」と言って、私に2切れ目のイワシハンバーグを差し出した。誰か助けてくれ。泣き出しそうになりながら家族の姿を探したが誰も見当たらない。私はなすすべもなく2切れ目を口に押し込み、ひきつった笑顔のままその場から退散した。

それからというもの、私の口内を脅かす恐怖のイワシハンバ―グとその手先の男は定期的にマイカルにやってきた。私が「おいしい」と言ったのがよほどうれしかったのだろうか、おじさんはやってきた私を目ざとく発見しては呼び寄せ、イワシハンバーグを食べるように促した。いちど「おいしい」と言ってしまったのだから、いまさら「まずいからいらない」なんて言えるはずもない。飲み込もうとするたびに喉がえずくのを必死にこらえ、私はおじさんに笑顔を向けた。そう、おじさんはなにも悪くない。良かれと思って、一銭も持っていないこの食いしん坊のガキに売り物を食わしてやっているのだ。ただ、最悪なのはこれがクソまずいというだことだけなのだ。イワシが憎い。もし次生まれ変わったのなら、私はなんの変哲もないハンバーグを売るおじさんと巡り合いたい。イワシのない世界で、きっと私たちは微笑み合って、手を取り合って生きていくんだ……。

それからしばらくして、イワシハンバーグは姿を消した。売り上げが悪かったのだろうか。私は大人になり、大概のものは好き嫌いせず食べられるようになった。今なら、あのイワシハンバーグも本心から「おいしい」と言えるのかもしれない。おじさん、またどこかであったらそのときは、またイワシハンバーグを食べさせてね。

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