小学校に入るまで暮らしていた横浜市本牧の家から歩いて20分ほどのところに、そこそこ大きな公園があった。当時の私の足ではもっと時間がかかっていたのかもしれないが、いつも車でマイカルに買い物に来たついでに遊びにいっていたからか、家からの距離はあまり気にしていなかった。
子どもたちから「スパイダー公園」と呼ばれていたその公園は、街中のほとんどの公園にあるような、公園とその外の歩道を仕切る低いポールがなく、そのおかげか、実際よりも広いように見えた。公園の細かい風景を思い出すためにグーグルで検索してみると、ある人のブログには「地元の人たちは“ロープ公園”と呼んでいます」と書いてあった。あれ、もしやスパイダー公園と呼んでいたのは私だけだったか。自分の記憶に自信がなくなる。
ともかく、スパイダーとかロープとか、どうしてそんなふうに呼ばれていたのかというと、その理由はこの公園に唯一設置されていた遊具にある。大通りに面した入り口から公園に入って、広場を通り抜けた先、公園らしい灰色の砂利が敷き詰められた場所には、赤いロープを蜘蛛の巣状に張り巡らせたアスレチックがそびえ立っていた。
東京タワーを上から少しつぶしたような形の三角が山脈のように4つくっついた大きな遊具。ふもとはだだっ広く根を張り、上に行くにつれてロープは少なく、4つの塔は細くなっていく。高さはおそらく4メートルくらいだろうか。ロープは綱引きで使うようなものよりもはるかに細く、ロープと中心のポール以外に掴まれそうな場所はない。子どもに対して安全性を一切保証しないそのスパルタな佇まいは「どうぞ勝手に登るなり落っこちるなり好きにしてください」とこちらに吐き捨てているようで、子どもが遊ぶための遊具としてはあまりに容赦のないようすだった。実際、ロープに足を取られた子どもがビタンと顔から地面に落ちて、大泣きしながら帰っていくようすも見たことがあった。
案の定、そのアスレチックは私が大人になるころにはきれいさっぱり撤去されてしまっている。今となっては、どこにでもあるような滑り台やらジャングルジムのくっついたようなありきたりの遊具が、取ってつけたように置かれているだけである。
「子供はケガしてなんぼ」という教えがまだかろうじて生きていた20数年前、私たちにとってスパイダー公園のアスレチックは、大人になるための試練だった。バヌアツ共和国の成人の儀式で村の若者たちが高台から飛び降りることと、本牧の子どもたちがスパイダー公園のアスレチックのてっぺんまでよじ登ることは、当時ほとんど同じことだったのである。アスレチックの頂点に立ってこそ成長の証、私たちはそう考えていたのだが、上で得意げな顔をしていたのはたいてい小学校の高学年男子だった。ときどき高校生たちが頂上付近のロープに腰かけてたむろしていたこともあったし、彼らに比べればほとんど生まれたてと同じだった幼稚園生の私たちは、頂上に行こうと思い立つ者自体、ほとんどいなかったように思う。
そんなわけで、相変わらず下の方のロープの上で控えめに飛び跳ねていた私だが、ある日、ふとポールに近づいてみると、なにか書いてあることに気がついた。正確には爪か石か、なにか尖ったもので傷をつけているような、力任せの直線の組み合わせでできたカクカクとした文字だった。幼稚園生なのだから、まだかろうじていくつかのひらがなと英語教室で習ったアルファベットが読める程度だったが、その落書きのなかのひとつに、私の目は釘付けになった。
「おっぱい」
おっぱいって書いてある。
私は動揺した。私は性に対して関心を持つのがやたら早かった。家で契約していたケーブルテレビで、意図せずアダルトチャンネルを発見してしまったのが最初だったような気がする。そういう破廉恥な映像や言葉を見たときのうまく説明できない罪悪感と、それでも見てしまう心の高ぶりを、この頃の私はすでに知っていた。ただ、それをどう受け止めればいいのかまではわからず、子犬育成のシュミレーションゲ―ムで子犬に「おっぱい」と名付けて悶々としながらおっぱいのフンを片付けるというような、今から考えると一周まわって思いつかないような奇行に走っていたのもこの頃だった。そうやって誰にも言えずに抱え込んでいた秘密が、こんな穏やかな昼下がりの公園で人目にさらされている。こんなことがあっていいのか。
一緒に来ていた祖父の目を気にしながらさらに上を見上げると、おっぱい以外にも、ここには書けないような言葉や絵が点々と刻まれていた。もしかして、上の方には、もっととんでもなくエロいことが書いてあるのかもしれない。読みたい。なにが書いてあるのか、どうしても知りたい。私は上を目指すことを決意した。
小さな手でロープを掴み、少しずつ上へ登る。登るたびにミシミシと音を立てて揺れるロープ、地上までの高さはすでに父の肩車の高さを超え、経験したことのない高さになっている。少し遠くでやんちゃなガキがぴょんぴょん飛び跳ねて、その勢いでさらにロープが揺れる。私はそいつをこれでもかと睨みつけながら硬直した。もはや下りるのも難しそうだ。こわい。どうしてこんな高さまで来てしまったんだろう。下にいた祖父はのんきにこちらを見上げて「ほれ、もうちょっとだぞ、登れ~」と、私が上を目指した動機も知らずに、笑っている。半分泣きべそをかきながら、私は最後まで登り切ろうと再び決意を固め、ロープについた砂で手の平を真っ白にしながら登った。
張り巡らされていたロープの本数がみるみる減って、ついにポールのてっぺんでひとつにまとまった。たどり着いた。ポールにしがみついて震えながらも、私は登頂の喜びに浸った。さあどこだ、エロはどこにある。しがみついたポールを隅々まで見る。
なにか書いてある。ちいさく、かくれるように、なにか書いてある。
エス、イー、エックス。
ただ、アルファベットが3つ並んで書いてあった。
なんだこれ、ぜんぜんエロくない。若すぎた私にはさっぱり意味がわからず、遠くなった地面を見下ろして、また途方に暮れたのだった。