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第4回

暗くなるまでこの声を[bonus track]

 窓から入ってくる陽の光がオレンジ色に変わりはじめると、あいつの気配を隣に感じる。

 いったんそうなるともうだめだった。やりかけのレポートも読みかけの本も、なんにも手につかなくなる。

 ベッドに寝転がってぼんやり天井を見あげ、最後に会った日のことやこれまでにかわした会話を反芻しているうちに陽が暮れて、気配が薄まるのを待つしかない。

 

甘利あまり?」

 卒業式の日、突然家まで押しかけた俺に、あたりまえだけど小倉おぐらは面食らっていた。玄関のたたきに裸足で下りてきたから、小倉も動揺してるんだと思ってほっとした。それでこっちの緊張がほどかれるわけじゃなかったけど。

「なに、どうしたの」

「東京行くって聞いて」

「あ、うん」

「それで、」

 いてもたってもいられず会いにきた――なんて言えるはずもなく、そのまま押し黙ってしまった俺を、「中、入る?」と小倉は部屋に招き入れた。マスクをしていない小倉の顔を見たのはずいぶんとひさしぶりだった。あごのところにひとつ、大きなニキビができている。

 古びた団地の中は薄暗く、ごちゃごちゃとものが散乱していた。そこらじゅうに女物の下着が散らばっていて目のやり場に困る。うちとはなにもかもがちがうのに、なぜか懐かしいにおいがした。

「何時?」

「さっき十三時すぎたとこだったと思うけど」

「ちがう、そっちじゃなくて、バスの時間」

「あ、そっち?」

 息を吐いて小倉が笑った。肩のあたり、かたく力が入っていたのが、ふっと抜けたように見えた。

「何時だったかな、0時とか、そんなもんだったと思う」

「あ、そんなかんじ」

「うん」

「まだけっこう時間ある。どこ発?」

 ぎくしゃくと身体がうまく動いてくれなくて、しゃべりかたまで舌足らずでたどたどしくなった。ふだん自分がどんなふうに言葉を発しているのか、わからなくなってしまったみたいに。

名駅めいえきだけど、ババアと鉢合わせたくないし、陽が暮れる前には出るつもり。バスの時間までどっか、漫喫とかでてきとうに時間つぶす」

 じゃあそれつきあうよ、バスが出るまでそばにいる、と言おうとして俺はためらった。いま言うべきことはそんなことじゃないんじゃないかって気がして。でもだからって、今夜この町を出ていこうとしている相手になにが言えるっていうんだろう。約束めいたことを言うような仲ではないし、引き留めるなんてもっとどうかしてる。

 あれこれ逡巡しているうちに、ぐう、と腹が鳴って、昼飯も食わずに飛び出してきたことを思い出した。ピザとか寿司とか、母さんがいろいろ用意してたのに。

「ラーメン食う?」

「食う」

 笑いながら小倉が訊いたから、俺も笑ってうなずいた。キッチンの棚からいくつも袋麺を出してきて「どれにする?」と訊くので、「食ったことないからわからん。いいよ、どれでも、小倉が食いたいやつで」と答えたら、「甘利、インスタントラーメン食ったことないの?」小倉はぎょっとしたような顔をして俺を見あげた。

「いや、何度かはあるけど、どんなメーカーのどんな種類のまでかはわからん」

 正直に答えると、なぜか小倉はげらげら笑って、おぼっちゃんだなあ、とつぶやいた。その手のことを言われるのはよくあることで、俺はそれがあんまり好きじゃなかったんだけど、不思議と小倉が言うのはいやみに聞こえなかった。

「せっかくだからぜんぶ食うか」

 ものすごくいいことを思いついたかのように小倉はにやりと笑い、片っぱしから袋麺の封を開けて、みそ味、しょうゆ味、塩味、チキン、辛ラーメン、五種類のラーメンを作った。味がにごるからと余計な具材はなにも入れず、スープと麺だけ。ストイックだなと俺が感心すると、ストイックの使い方まちがえてるだろと小倉が笑った。笑うたびに、やわらかそうな小倉の髪が鼻先をかすめて、心がうわつくのを止められなかった。小倉はみそ派で、俺は塩派だった。

 スープと麺だけでふくれあがった腹をさすりながら、小倉は俺を奥の和室に案内した。敷きっぱなしの布団を足で丸めて脇に寄せ、壁に体をあずけて並んで腰をおろす。2リットルサイズのペットボトルに直接口をあてて交互に水を飲んでいると、いやでも夏の記憶がよみがえった。

 夏休みの最後の日、俺から強引にキスをした。

 どういうつもりでそんなことをしたのかなんてそんなの、そういうつもりでしかなかったんだけど、あれから小倉はなんにもなかったみたいな顔をして、学校ですれちがうようなことがあっても目を合わせようともしなかった。

「小倉くんと、なにかあったの?」

 一度、美鈴みすずに訊かれたが、べつに、なにも、とだけ答えた。あけっぴろげで率直にものを言うからがさつに見られがちだけど、あれで実は繊細なところがあって、それ以上、美鈴は追及してこなかった。

 パンドラのはこを開けてしまったことに、全員でしらばっくれてるみたいだった。蓋をこじ開けた俺自身が率先してそうしてるんだから、どうしようもなかった。

「急に食ったから、ねむい」

「いいよ、寝て」

「ラーメンの汁飲みすぎたせいか、喉かわく」

「俺も」

 ぽつぽつとどうでもいい会話をしながら、すりきれた畳の上に足を投げ出して、半開きのカーテンから入ってくる陽が少しずつ色を変えていくのを眺めていた。とくべつな言葉なんかいらなかった。何時間でもこうしていられそうだと思ったし、実際、何時間もそうしていた。手をのばせば触れられる距離にいる。触れたいけど触れられない。じりじりと指先が歯がゆく熱を持つ。陽にさらされた足の親指を口に含みたいとふと思って、さっきたたきに裸足で下りてたのに変態だなと一人で笑っていると、なに笑ってんのとつられるように小倉も笑い出し、うなじに息がかかる。暴力的な欲望と別れの予感にくらくらと眩暈めまいをおぼえているうちに、あっというまに時間がすぎた。

「そろそろ行くわ」

 手元のスマホで時間を確認して、小倉が立ちあがった。日が傾きはじめると、ただでさえも薄暗い団地の中はほとんど陽が射さなくなった。

 小倉の荷物はバックパックひとつだけだった。俺が二泊三日の合宿に持っていくよりも少ない荷物で住みなれた家を出ていく小倉の気持ちなんて、俺にわかるはずもなかった。ドアに鍵をかけると、少し迷うようなしぐさを見せてから、小倉はその鍵をだぶっとした黒いパンツのポケットにねじ込んだ。

「え、なんで」

 あたりまえのように地下鉄の駐輪場に自転車を停めてついてこようとする俺に、小倉は驚いたような声をあげた。アスファルトにふたつの黄色い影がのびている。

「送ってく」

「でも、自転車」

「いい。後で取りにくるから」

「受験まだ終わってないんでしょ」

「今日ぐらい、べつに」

「落ちても知らねえよ、俺」

「なんだよ、責任とってくんねーの」

「無理。自分のことだけで手一杯なのに」

「だよな」

「うん」

「心配しなくても、俺受かるから」

「うん」

 小倉がバスに乗り込むまで、ずっとそんなかんじだった。ファミレスのドリンクバーでメロンソーダとコーラを混ぜて飲んだりして、意味のない会話をくりかえし、夜の公園の遊具でちょっとどうかと思うぐらいはしゃいだ声をあげて遊んだ。肝心なことはおたがいなにも言わなかった。俺も小倉も今日高校を卒業したばかりで、これから自分がどうなるかもわからないのに、相手のことまで考えられる余裕なんてなかった。だからなにも言わずにそばにいるしかなかった。

 

 第一志望の名大めいだいにぶじ合格し、四月から大学生活がはじまった。

 そうはいってもコロナ禍でまともに通学もできず、オンラインで授業を受け、自宅で課題をこなすだけの毎日。

 大学に入ったらバイトを始めようと思っていたのに、そのバイト代でゴールデンウィークに東京まで行こうと思っていたのに、コロナがおさまるまではやめてちょうだいと母さんに泣きつかれ、それもかなわなかった。ただでさえ神経質なところがある人なのに、コロナ禍に入ってからいつにもまして母さんはぴりぴりしていて、ちょっとコンビニに出ていこうとするだけでものすごい剣幕でわめきちらすので、どこにも行けず――日課のランニングさえ許されず――ひたすらずっと家にいる。

 くさくさするから気晴らしに映画でも観に行こうと美鈴に誘われたが、事情を説明すると「ラプンツェルかよ」と返ってきた。ラプンツェルってなんだよと思って調べたらそういう映画があった。暇つぶしに観ようとしていると、「浩平がディズニーなんてめずらしい」と母さんも寄ってきて、二階の映画部屋で二人で観ることになった。美鈴の言っていたことの意味がようやくわかってぞっとしたが、隣で母さんはすんすん洟を啜っていた。娘か母親か、どっちの気持ちで観ているんだろうと思ってますますぞっとした。

 小倉とはLINEのやりとりをすることもあったし、たまにLINE通話で話すこともあった。あいかわらず、話すそばから内容を忘れてしまうようなどうでもいいことばかりだったけど、どちらも自分から通話を切ることができなくて、目も開けていられないほどの眠気で頭がぐらついていても、無理してたがいの声に耳をすませていた。

「やべえ、寝そう」

「俺も」

「ねむい」

「ねみいな」

「うん」

「寝る?」

「いいよ、寝て」

「そっちこそ」

 ずっとそんな調子だったから、通話がつながったまま寝落ちしてたなんてことが何度かあった。

 現在小倉は、一年ほど前にSNSで知り合った人の家に転がり込んでいるらしい。未成年だと親の許可なしに部屋を借りることもできず、緊急事態宣言下でネットカフェも軒並み休業になり、他にどうすることもできなかったんだという。相手は相手で、コロナで収入が激減して困っていたところだったから家賃さえ入れてもらえれば大歓迎だと言っているようだ。その相手が男なのか女なのか、俺はいまだに訊けないでいる。

「仕事、見つかった?」

「ぜんぜんだめ。飲食とか、カラオケも、いまはどこも求人どころかまともに営業してなくて」

「え、じゃあどうしてんの」

「貯金がまだ多少残ってるし、日雇いとかでなんとか」

 帰ってくれば。そこまでして、なんで東京にいる必要があるんだよ。こっちに戻ってくれば少なくとも寝泊まりできる家はあるし、俺だっているだろ。

 無責任にそんなことを言ってしまえるほど俺は子どもじゃなかった。だからといって小倉のことを丸ごとぜんぶ引き受けてやれるほど大人でもなかった。

 小倉と話しているといつも急くような気持ちになるけど、これ以上進んだらまずいとつねにアラートが鳴ってもいる。早く大人になりたいと思うのと同じぐらい大人になってしまうことがこわかった。会いたいとは思うけど、触れたいとはもう思わない。わからない。隣にいればまた触れたくなるのかもしれないが、いざそうなったら止まらなくなることは目に見えていた。一度あふれだしたら後戻りすることはできない。どうすればいいのか、もうぜんぜんわからなかった。

「あ、晩飯だって」

 階下から母さんの呼ぶ声がして通話を切りあげた。なぜかほっとしている自分に気づいて、身勝手に俺は傷つく。これじゃ、あの夏の日とおんなじだ。

「浩平、聞こえてるの、ねえ浩平、ごはんできたってば」

 しきりに呼びかける母さんの声に、「いま行く」と答えて俺はベッドから起きあがった。

 

 

吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年静岡県生まれ。名古屋市在住。2004年「ねむりひめ」で「女による女のためのR-18文学賞」第3回大賞および読者賞を受賞。同年、同作が入った短編集『しゃぼん』にてデビュー。21年、愛知県芸術文化選奨文化新人賞を受賞。22年、『余命一年、男をかう』で第35回山本周五郎賞にノミネート、第28回島清恋愛文学賞を受賞。主な著書に、映画化された『グッモーエビアン!』のほか、『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『女優の娘』『夢で逢えたら』「マリー・アントワネットの日記」シリーズなど多数。最新刊は、第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞「流産あるあるすごく言いたい」を収録したエッセイ『おんなのじかん』。

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