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第2回

《私は誰だ》という問いに導かれ、夢幻の王国へ旅に出る

《これは物語という病に憑かれた人間たちの物語である》という一文で幕を開け、《語りはつねに騙り、、であ》ると物語の虚構性にピンを刺す。そうして語りはじめられ、1人の男が静かに《瞼を閉じ》るまでの502ページ。主な登場人物は3人いる。この小説を著した倉数茂とプロフィールや幾つもの体験を共有しているかに見える《著者である私》。《物語を語ることと抜き差しならない恋に落ちている》ほどの《私》に、《もう一人の自分アルター・エゴ》であると感じさせる若き作家は澤田瞬と名乗る。そして、2冊の短篇集といくつかの掌篇を遺して世を去った、《言葉に貪り食われていた》作家であり瞬の伯母でもあった沢渡晶。3人の作家が言葉によって姿を現し、時間と歴史を付与されて『名もなき王国』のただ中を泳ぎまわる。

 第一章「王国」で、とある宴会で出会った《私》と瞬は、《物語という病》に侵された者同士意気投合する。《私》がかつて愛読した沢渡晶の名があがるにいたって2人の声と心はますます弾み、酩酊に向かいながら幻の作家について語り合う。沢渡晶が暮らし、瞬がたびたび訪れた《王国》、夢と幻影の城に流れる時間と自由と衰亡について、選び取られた言葉は《私》を浸潤し、夢幻の奥行きを湛えながら、物質的な強度さえ備えて小説の読者に手渡されていく。

 第二章「ひかりの舟」は瞬と未爽の物語だ。出版社に勤める夫とフリーライターの妻の間には、生まれてこなかった子どもの記憶が生々しく横たわっている。取材をとおして《社会的子育て》を謳うNPOに接近していく妻を心配する一方、夫は沢渡晶の痕跡を探り、書かれたはずの小説を追って、《自分は結局虚構の世界を選んでしまったのだという心地の良い敗北感に身をゆだね》る。ゴンドラは上昇と下降を繰り返し、舟は揺れ、針路はいつしか別たれてゆく。

 瞬の話をきいた《私》によって書き起こされた「ひかりの舟」に続く第三章は、瞬の手になるSF短篇「かつてアルカディアに」。近未来、何者かによって閉じこめられ、隔離された生活が営まれる海辺の町で、ある人は老いることなく昏睡し続け、ある人は塔を建て、ある人は本を集め、ある人は自分に瓜二つの《あれ》に対峙する。週に一本だけやってくる電車から降りてきた澤田という名の老人は、遠い昔に伯母の家で出会った少女を探している。自己と他己と記憶に、世界の基底に、静かな光が当てられる。

 第四&五章には、沢渡晶が書いた小説が置かれる。満州の新京に暮らした子ども時代に兄と妹が語り合った空想の《王国》も登場して、作家と家族をめぐる私小説的記述に戦争の記憶が絡み合う短篇「燃える森」に対し、「掌編集」に収められた四篇は、沢渡晶が幻想の作家と称えられるわけを読者にも教えてくれる。土蔵の秘密を覗く「少年果」、頭蓋の内側で世界が増殖していく「螺旋の恋」、空っぽだった抽斗から現れる「海硝子シーグラス」が映す光は、「塔(王国の)」の色硝子も透過して、窓の向こうに広がる街並みを美しく染めかえる。

 こうして入れ子になり、円環し、反復しながらたえず形を変える物語に連れられていく先には、語られていることとは別種の真実が置かれている。語りの迷路の内側に、忘れられた幻想作家の思考と言葉をたどる喜びがあり、《私》と瞬それぞれの家族と生活と破綻がある。夢見る人の視線のからまりがあり、少年と少女の冒険があり、恋の萌芽と愛の時間が、働くことのリアリズムがある。《物語という病》への依存があり、鉱物に閉じこめられた虫が摑んだ永遠と、想像力に幽閉されることの喜びと苦しみがある。ミステリとホラーの気配が立ち籠め、幻想とSFがその影を伸ばして読み手を誘い、文学は精緻な手つきで組み替えられ、構造の美しさを増しながらエンターテインメントへ結晶していく。

 そして「幻の庭」と題された最終章。リズムと言葉を制御する弁を細やかに調整しながら、《私》の過去と現在が語られ、探偵の物語が執筆されて、《ここでないどこか》へ行き着くための薬《海滴》を追う存在が立ち現れる。次々に提示される断片は、窓を濡らす水滴のように《互いにくっつき(…)最初は小さな粒だったものが、徐々に拡大し、突如動き出》して、新たな欠片として圧縮されたかと思えば、漂流する《私》の孤独な魂と泣き、笑うその顔を拡大鏡のように映し出す。小説全体を貫く《私は誰だ》という問いは、深さを湛えたまま光のなかへ置きなおされて、物語を駆動していた愛の姿を明らかにしてみせる。『名もなき王国』という一冊の本を読むことを踏み越え、世界の様相さえ変容させて、生き、生きながらえることにまで深くかかわってしまう、なんという幸せな読書の体験があるのだろう。

 

 

Profile

鳥澤光(とりさわ・ひかり)

ライター、編集者。『BRUTUS』『GINZA』『Hanako』『文學界』などでインタビューや本の紹介などを手がける。

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