
石川さくらのかかりつけの心療内科医は、かならず診察の第一声を「最近はどうですか」で始める。さくらはそのたびに、彼はもしかしてやぶ医者なのではないか、と疑ってしまう。夫の会社の産業医でもある人物だから悪く思いたくはないが、それにしても、話のとっかかりとしてこれ以上の悪手をさくらは知らない。あなたの情報は脳に留めていないしこちらから話題を提供する気もない、でもなにかしら興味をそそる話をしてください、と要求しているも同然だ。それとも自分が知らないだけで、心療内科では「最近はどうですか」でかならず話を切り出し、胸いっぱいの悩みで風船のようにはちきれそうな患者たちが、ひとりでに内面を吐露するのを待たねばならないという規則でもあるのだろうか。
「相変わらずです」
少なくともさくらは、この質問にこれ以上の自己開示をする気が起こらない。
「疲れていても、ベッドに入ると目が冴えてしまう状態が続いていますか?」
覚えているなら最初からそう訊けばいいのに、という感想はおくびにも出さず、さくらは「そうですね、いろいろ試してみてはいるんですけど。半身浴をしたりハーブティーを飲んだり」と、今度はできるだけ詳細に話題を提供した。
「アロマオイルなんかはいかがですか」
「うちには犬がいますので、念のためにやめています」
「そうでしたか。おいくつです?」
「もうすぐ三歳です。コーギーの男の子」
「ああ、ウェルシュコーギー。ペンブロークですか、カーディガンかな」
「ペンブロークです。よくご存じですね」
「妹夫婦がキャバリアとのミックスを飼っていまして。たしか二歳の女の子」
「まあ、そうですか。それじゃあもう、だいぶ大きいでしょう」
「そのようです。夜中に吠えたり物音を立てたりして、起こされはしないですか?」
「いいえ、まったく。うらやましいほど眠りが深いので、困らされたことはありません。先日なんて、マンションで火災報知器が鳴っても寝ていましたから。ほとんど引きずるみたいにして雨の中を外に飛び出しても、ずっと夢心地だったくらいです」
「おや、そんなことが。大変でしたね」
「ええ。うちのマンション、一部の部屋を若い単身者向けに安く貸しているんですが、そちら側の住人の不注意だったそうで」
「人の入れ替わりが多いと落ち着かないでしょうね。騒音トラブルなどは?」
「いまのところありませんが、この先心配ではありますね」
ようやく会話らしくなってきたので、さくらもさっきまでの疑いを忘れ、流れに任せて必要事項を打ち明ける。薬の副作用はいまのところ感じない。ただ、熟睡できているという実感も薄い。とはいえ、いたずらに強い薬を習慣化することには抵抗がある。そう伝えた上で、いま処方されている睡眠導入剤と精神安定剤でもう一ヶ月様子を見たいと申し出たところ、あっさりと許可が下りた。
「では、次は八月にお会いしましょう。お盆休みは楽しんでくださいね」
「ええ。どこも混んでいますから、今年はうちで犬とのんびりしようかと思います」
「ご実家には帰られるんですか?」
「うちは実家に近いので、わざわざ帰省しなくていいかなと思って。それに、たぶん妹が中学生の姪を連れて帰るので。親もそちらに夢中になって、私なんか、いてもいなくても一緒でしょうから」
「なるほど。お孫さんがいたら、そうなるかもしれませんね」
親身かつ淡白な口調で受け流されて、さくらはほっとした。夫の勤務先は一部上場の製薬会社で、その産業医ならそれなりに権威ある先生のはずだが、人のよさそうな風貌は名医というよりパン屋のおじさんにしか見えない。もっとも「いかにも心療内科医」ではないところが、むしろ「いかにも心療内科医」なのかもしれない。
「ほかに、なにか訊いておきたいことはありますか」
こちらも診察の締めくくりに出てくるお決まりの台詞だ。ただ、不思議と「最近はどうですか」ほどの違和感は覚えない。さくらはもとより人と話すのが得意な性分で、質問はあるかと訊かれれば、ちょうどよいサイズ感のものが泡のようにぽこぽこと湧いてくる。しかも今回の場合、これだけは確認しておこうと事前に決めていたことがあった。
「最近、よく昼寝をするんですけれど」
相手は傾聴の姿勢を取ってさくらと視線を合わせつつ、ペンを持った手だけを動かしてカルテになにか書き込んだ。雑談ではなく記録に値する「情報」を一発で提示できたことにおぼろな満足感を覚えつつ、言葉を続ける。
「時間は数十分、長くても一時間やそこらなのですが、自分でも予想した以上にぐっすり眠ってしまうんです。だから逆に、夜の睡眠に支障が出るのではないかと心配で」
「大丈夫だと思いますよ。むしろ、いい傾向です。海外ではパワーナップと言って、業務効率を上げるために昼寝の時間を取り入れる企業が増えているくらいですから。とはいえ眠りすぎると逆に疲れてしまうのも事実なので、不安なら目覚ましをかけて、あらかじめ時間を区切るといいかもしれませんね」
「そうですね……ただ、アラームをかけると逆に、いつ鳴るんだろう、すぐ止めなきゃ、と不安になるんです。それで寝つきが悪くなって、起きてもしばらくぼんやりしてしまうことが多くて。いっそなにも鳴らさないほうが、集中して眠れてすっきり目覚める気がするんですよ。集中して眠るというのも、おかしな言い方ですが」
「いや、わかりますよ。お話を伺うかぎり問題はありません。安心して、ひとまずはその習慣を続けてみてください。異変を感じるようになったら教えてくださいね」
わかりました、とさくらが従順にうなずくと、心療内科医は優しく目を細めた。
「石川さん、いまはご実家にいらっしゃるんですか」
「……え? いいえ、さっき申し上げたとおりですが」
「ご自宅の話ではなさそうでしたので」
「ああ……まあ、お友達の家、というか」
我ながら怪しい答え方だと思ったが、それ以上追及されることはなく、そうですか、それではお疲れさまでした、と物分かりのいい返事でさくらは診察室から解放された。
会計を待ちながら、浮気でもしていると思われただろうか、という無用な心配が脳裏をよぎる。四十を迎えて独身時代より十キロ太り、いわゆる想像上の「人妻」からはかけ離れているが、それでも「昼寝だけさせてくれる友達の家」なんてものが存在すると考えるより、夫の単身赴任中にホテルにでもしけこんでいると考えるほうが普通かもしれない。倫理的な問題はさておき、道筋ができている。
実際のところ、403号室の原田春乃のことを「友達」と呼んでいいものか、いまだにさくらにはわからない。ただ「同じマンションの人」と言うよりは納得感がありそうだから、そう表現しただけだ。ご近所であることには違いないが、彼女の存在はこれまでの人生でさくらが出会ってきた、どんな「友達」の定義とも重ならない。
さくらの住む部屋には一か所、不思議な場所に電球用のソケットがある。それは物置にしている六畳間に備え付けの収納の中で、開けるときは部屋の明かりをつけるので必要になったことはなく、電球を挿し込んでもいない。現に視界に入るたび「どうしてこんなところに?」と首を傾げてしまう。ただ、普段は存在すら気に留めないし、あるぶんには邪魔ではないので放っておいている。さくらにとって、原田春乃はそういう存在に思えた。よくわからない場所にぽつりと浮かんでいて、なにかのタイミングが合致すれば、ごくまれに必要になるときもある。たまたま、それがいまだっただけの話だ。
さくらが夫と結婚したとき、披露宴でスピーチをした夫の上司は「人生には三つの坂があります。上り坂、下り坂、そしてあとひとつは、まさかです」と言った。これだけの台詞にたっぷりをつけたせいで、ただでさえ長いスピーチに辟易していた参列者は「まさか」を言われたときには振りに対する落ちの弱さに失笑ムードだったし、夫もさくらが小首を傾げたのをちらっと見て、後々「あの人、話長かったね」と共感し合うときには「あんなわかりきったことドヤ顔で言われてもな」と溜息をついてみせた。そうだねえ、とさくらも同意したが、実際に言いかけて飲み込んだことは深い場所まで落ちて残った。
「まさかって、そんなにしょっちゅう起こるものなの? 天災とか原因不明の大病なんかはしかたないとしても、たいていのことには原因と結果があるんじゃないの」
その発想自体が「まさか」の罠に嵌まる典型だと、頭ではわかっていた。ただ、不注意で起こるミスならいざ知らず、避けえぬトラブルの存在をわざわざ説教で思い起こさせ、平時まで縮こまっていろと脅すような言葉にかすかな反発を覚えた。どれだけ備えたところでいつかそれを上回る「まさか」が訪れるなら、必要以上に悲観せず、いまの幸せの旨味を堪能しておくほうが健全だ。その考え方は、いまでも変わっていない。
その「まさか」がとうとうさくらの人生に訪れたのは二年前、ボワティエメゾンのロビーにいたときだった。
夫の単身赴任が決まった年、石川家の住む401号室はマンションの理事に指定された。持ち回り制だからやむを得ないとはいえ、おじさんが大半を占める集会にひとりで参加するだけでも憂鬱だったのに、くじ引きで理事長になることが決まった瞬間、まさかって本当に坂なんだ、と思った。穴ならば、注意深く歩けば違和感に気づけることもある。なだらかに続く道には確固たる手掛かりがなく、引き返すきっかけもない。しかたないと思いつつ夫の単身赴任を受け入れ、しかたないと思いつつ集会に赴き、しかたないと思いつつ役職決めのくじを引いているうちに、ふと気がつけば「まさか」の底にいた。
若輩者ですし、勤めていたのは昔でそれも教師だったので事務のことは不勉強ですし、夫も単身赴任中で、と必死で訴えても、「じゃあ自分が」と代わってくれる人などいなかった。さくらとて同じ状況なら絶対に手を挙げない。聞けば理事長は修繕費の積立口座の責任者にならなくてはならず、ペットの飼育や自転車の利用といった申請書に判を押し(トラブルの責任はもちろん背負わされる)、住人の苦情に耳を傾けて解決を図らなくてはいけない。説明を受けながら、さくらは見えない穴の出入口を求めるように無意識に天を仰いでいた。
どうしてそんな大役をくじで決めるの? 好きな舞台俳優の公演やファンミーティングのチケットには恵まれないのに、こんなところでばかり当たりが出るの? 神様、私がなにをしましたか?
半泣きで帰宅し、体育座りをしながら飼い犬の大豆を抱きしめてふかふかした耳のにおいを嗅いでいると、ふいにインターホンが鳴った。しばらくは無視していたが(エントランスならともかく、玄関からインターホンを鳴らす相手は、当時は下の階の住人だけだった)ごめんください、というほがらかな声につられて思わずドアを開けると、義母ほどの年恰好の女性が立っていた。
「こんにちは、501号室の入江です。大豆ちゃんはお元気かしら」
五年前、夫の地元の銘菓を持って入居の挨拶に行った上の階の入江夫妻、とくに奥さんのほうはさくらもよく覚えていた。大豆を引き取ったばかりのころ、散歩から帰ったロビーで彼女に「あら大豆ちゃん、初めまして」と声をかけられたときは思わず警戒したが、聞けば大豆を飼うために提出したペット飼育許可申請書を、彼女の夫が理事長として承諾したらしい。
「401のご夫婦は捨て犬の保護活動に熱心らしい、若いのに感心だって、主人が褒めていましたよ。奥様が書類を用意なさったようだけど、不備もなくて、しっかりなさってるって」
わざわざペット可の物件を選んだのにどうしてこんなものが必要なの、と不満たらたらで用意した申請書が、目の前の女性の夫に審査されたこと、提出しておしまいだと思った紙一枚が評価という形で自分の元に戻ってきたことに、さくらはひやりとして愛想笑いが引きつった。
「ご主人もいらっしゃらないのに、心細いでしょう? 困ったことがあったら相談してちょうだい、うちは二期連続で理事長をやったこともあるし、いろいろと慣れていますから」
入江夫妻の奥さん(妃佐子と名乗った)いわく、彼女の夫である君里氏はマンションの大規模修繕という波乱の時期に理事長を務め、しかも二期目は「自分が決めたことを後任に投げるのは示しがつかない、事が済むまで見届ける」と立候補までしたらしい。そして妃佐子のほうも、夫の選択におおむね同意しているそうだった。べつに見返りがあるわけでもないのに、そんな責任感の強い人たちがいるのかとさくらは衝撃と感銘を受け、そこからは遠慮なく彼女にアドバイスを求めるようになった。
妃佐子のおかげで、さくらは母からの結婚祝いであるこのマンションが想像以上のしがらみの中にあることを知った。ボワティエメゾンは二十年前の建設当初、ベッドタウンの新築物件として高い需要があったが、マンションの経年劣化と土地自体の利便性の低さが露呈しだしたことでじわじわ価値が下がり、数年前に五世帯ほどが一気に転居した。業を煮やしたオーナーが大規模修繕のタイミングで改築によるイメージアップを狙い、管理組合を押し切る形で工事を強行したが、釣られたのは安い家賃目当ての若者だけだったらしい。
「あれからというもの、北側の質も下がった気がするわ」
大豆を膝に乗せた妃佐子にお茶を出しながら、初めて、さくらはこのマンションに北と南が存在することを知った。エレベーターを出て右に曲がると南、左に曲がると北側なので、乗り合わせた相手がどちらに住む人間か判別は容易らしい。ただ、それだけではないと妃佐子は強調した。いわく、北側の部屋に住む単身者は「雰囲気でわかる」と。
「北側ときたら、自分しか住んでいないとでも思っているみたい。挨拶もしないし、ゴミの出し方もいいかげんだし。ほかにも考え無しにネットで買い物をして宅配ボックスを満杯にしたり、駐輪スペースを勝手に使ったり……」
果てしない「北側」への愚痴を親身に聞く一方で、入江夫妻が当然のようにそんな呼び分けをしていたことにさくらは少し怯えた。ふたりに対してではなく、善良でマンション外でも信頼を得ているだろう彼らが、ずっと同じ場所に住んでいると選民的な表現にも無頓着になるという事実への恐怖だった。
「こうなると思っていたから、改築なんて私たちは反対したんですよ。そんな小手先のあがきに釣られる人ばかり集めたって、マンション全体の治安が悪くなるだけ。集会でもさんざんそう説明したのに、どうでもいいから適当に済ませたいっていう態度をほかの理事が隠そうともしないし、住人のみなさんも無関心で……それで、後から私たちにとやかく言われてもね」
「わかります。ふだん好きにやっている人ほど、困ったときに要望が多いんですよね」
思わず強くうなずいたさくらに、妃佐子はほんのりと嬉しそうに笑った。
「まあ、私たち夫婦はこの歳だし。ここに住んで長いから、なにか言われても『ほら、だから申しましたでしょ』って返してやりますけどね。石川さんはそういうわけにいかないでしょうから。困ったことがあったら、なんでも言ってちょうだいね」
ありがとうございます、と頭を下げながら、さくらは内心、理事長という役職への不安を上回る安堵を覚えていた。この人たちを味方につけることができれば、きっと、自分のこのマンションでの生活は安泰だ。理事長のあいだだけではなく、この先もずっと。
妃佐子に表情が見えないよう下げた視線の先には大豆がいて、不思議そうにさくらを見返していた。どうしたの? と言わんばかりの無邪気な表情に、さくらは笑みが抑えられなくなった。入江夫妻が協力を申し出てくれたのはさくらの用意したペット飼育許可申請書を見たからで、つまるところ、大豆のおかげだ。この子を迎えるための申請によって、私は予想外の味方を得た。どうでもいい、適当に済ませたいという誘惑に幾度となく襲われたし、夫からも現に言われたが、抗っておいて本当によかった。
見る人は見てくれている。そして、その縁は大豆が呼んでくれた。保護犬の譲渡会でこの子に一目惚れして飼うことを決めて以来、私の人生は少しずつ好転を始めている気がする。
入江夫妻の後ろ盾によって、さくらはなんとか一年間の任期を無事に務め上げた。総会で後任への引き継ぎが決まった日、さくらは大豆にサーモンを使った手作りのトリーツを奮発し、夫にはずっと欲しかったキッチン家電をねだった。やれやれと坂のてっぺんで青空を見上げながら大きく伸びをして、軽くなった足で新たな一歩を踏み出した先は、不眠症という新たな「まさか」への一本道だった。
原因に心当たりはなかった。むしろ、あらゆるストレスから解放されたタイミングだった。就職する、実家を出る、結婚する、仕事を辞める、不妊治療を始める、あきらめる、保護犬を飼う、初めてひとりで暮らす、理事長を務める。人生の転機になりそうなことはおおむね終わり、あとは両家の親の介護が始まるまで、ようやく念願の、穏やかで健やかな生活をまっとうしようと待ちかねていた矢先だった。
「環境の変化が落ち着いて気が緩んだタイミングで、これまで無意識に溜めてきた負担がいっぺんに出てしまったのかもしれませんね」
さくらが懇切丁寧に自分の潔白を説明しても、心療内科医は訝る様子もなく、なかば確信したような調子で説明するので開いた口がふさがらなかった。気が緩んだ、なんて、まるで然るべき警戒を欠いて油断したような言い方だ。無意識なんてものを持ち出されたら、そんなのはもう、原因はなにもないしなんでもいい、と言われたも同然ではないか。
神様、と、またしてもさくらは思った。私がなにをしたっていうんですか?
いったん自宅に戻り、短い尻尾を振ってじゃれついてきた大豆をひと撫でする。大豆がひとりで留守番できるのはおよそ四時間。片道一時間かかる心療内科でさらに一時間待って十分の診察を受け、隣接の薬局では三十分待って薬をもらい、急いで帰ってきた。ぴんと耳を立てていかにも嬉しそうにこちらを見上げる小さな顔を、撫で回したくなる衝動をさくらはぐっとえる。外出時や帰宅時に過剰に構い立ててしまうと、逆に犬が「別れ」を意識してしまい、分離不安を招きやすくなるのだ。
大豆、いい子ね。あともうちょっとだけ、お出かけしてきてもいい?
眉間をそっと撫でてやりながら小声でささやくと、くふ、と鼻息で返事があった。
処方された薬の入った袋と鞄をダイニングテーブルに置き、二時間ぶんの餌と水を補充して、トイレに行くようなさりげなさを意識しながら、さくらは玄関から廊下に出た。403号室のドアを開けると、三和土に踵の潰れたスニーカーが一足ある。部屋の主の靴ではない。原田春乃は珍しく外出しているらしい。
あの子、今日もいるんだ。
さくらはせり上がってきた溜息を押し殺しつつ、ごめんください、と声を張って自分の靴(いつもゴミ出しにつっかけるサンダルではなく、さっきまで履いていたストラップ付きのミュールで、去年の夏に買って以来大切に手入れしている)を脱ぎ、温泉旅館の布団のようにスニーカーの隣にひたりと並べた。
奥の六畳間の床にぺたんと座った八並青は、引き戸が開いても顔を上げなかった。案の定、両耳にはいつもの、黒い虫のようなワイヤレスイヤホンをつけている。さくらが身をかがめ、パズルの横を回り込みながら近づき、体ひとつぶんの距離をとりつつ隣に並び、視界の端に入るようにそっと手を差し出すと、やっと弾かれたようにイヤホンを外した。
初対面の犬に近づくときと同じプロセスだ。姿勢を低くする、急に目を合わせない、正面から近づかない。
「こんにちは、八並さん」
最近の若者は、警戒心の強い犬と一緒だ。おとなしく腹を見せれば幸せになれるのに、身の丈に合わない牙を剥いて自分を大きく見せたがる。その虚勢を解きほぐしてあげるのが大人の務めだと思えば、いくらかは寛容になってあげられる。
「原田さんはどこかに出かけた? 靴がないみたいだけど」
「さあ、とくになにも言われませんでした」
「聞こえなかっただけじゃなくて?」
なにげない確認に、青は不当な疑いでもかけられたように「いいえ」と即答した。
「声をかけられたら聞こえたと思います。これ、音を流していないので」
「……そうなの?」
はい、と言いながら、青はイヤホンを両手に乗せて掲げてみせる。もちろん実際に嵌めて確かめる気にはならず、さくらはもう一度、そうなの、と答えた。
鍵もかかっていない他人の部屋で耳栓をするこの子の神経もわからないが、そもそも、家主がオートロックのマンション内とはいえ不用心すぎる。同じ屋根の下にいるからといって安全とは限らない。いや、逃げられないからこそ、はずれくじを引いたときが怖いのに。
さくらは理事に就任する前年、下の階の住人からの「犬がうるさい」という苦情に悩まされていた。いかにも気難しげな年配の女性で、入居時にさくらが挨拶に行ってもドアも開けずに「そういうの結構です」の一言だったから、夫の不在を狙って平日の昼間に怒鳴り込まれた際にさくらは初めて相手の顔を目にした。その後も直接ドアを叩かれることもあれば、管理会社を通じて警告されることもあり、そのたびに相手はおとなしい大豆にあらぬ濡れ衣を着せ、足音が響く、無駄吠えがすぎると主張してきた。仲良くなったばかりの入江妃佐子に相談し、間に入ってもらってどうにか引き下がらせるまでにさくらの受けたストレスはひとかたならぬものだった。
あのころに不眠症になっていればさくら自身も納得できたし、診断書を盾にして、もっと効率的に相手の不当さを主張できただろう。そう思うと、いまの状況がますます理不尽に感じられる。
「どう、はかどっている?」
そんな質問が皮肉に思えるくらい、眼前の真っ白なパズルには進捗が見られない。青の手はピースを持ち上げては下ろし、表面をざらざらと撫で、砂遊びしているだけに見えることもある。どのくらいの頻度で通っているか知らないが、毎日ここに来るだけの時間があるならもっと成果を上げられそうだ。それとも、最初からその気がないのだろうか。
「いつまでに完成させるか、予定はあるの?」
青は少し言葉に詰まり、パズルのほうに身を乗り出しながら答えた。
「できるだけ早く、と、思っています」
そんなものは「予定」とは言わない。そういう無計画な性分だから、せっかく決まった仕事だってすぐに辞めてしまうのだろう。
「まあ、子供と違って大人の夏休みには期限がありませんからね。ゆっくり、自分のペースで進めるといいですよ」
そう言ってさくらは相手に背を向け、六畳間の収納の扉を開けた。
その床には、深緑色のヨガマットがぴったりと敷き詰められている。これを敷くためにこの場所を設えたのではないかとばからしい空想が頭をよぎるほどだ。指一本ほどの隙間を残して扉を閉め、壁のほうを向いてマットの上に横たわる。クローゼットでお昼寝、なんていい歳をして我ながらばかばかしいが、八並青に無防備な寝顔を見られることには抵抗があった。
八並青が、不注意で火災報知器を鳴らした504号室の住人だということにさくらは気づいていた。最近エレベーターで顔を見かけなくなったのは、仕事を辞めたからだというのも予想したとおりだ。ただ、なぜ403号室に入り浸り、転職活動もせずにのんきにパズルなどしているのかはわからない。原田春乃に訊いても「行きがかり上、そうなって」と説明にもならない答えがあるばかりだった。
怪しみつつも追及できないのは、さくら自身も「行きがかり上」ここにいるだけだからだ。不眠症と診断されたばかりのころ、とにかく体が疲れれば眠れるだろうと夜明け前に慣れないランニングに出て、ジャージのポケットに入れていた鍵を落とした。連日の睡眠不足がたたってマンションの前で絶望と貧血にうずくまっていたところを春乃に発見され、彼女の携帯電話を借りるために部屋に上がったのが最初だ。管理会社に連絡し、安心したらとたんに緊張の糸が切れたようで、気がつけばヨガマットの上でよだれまで垂らして熟睡していた。
ただ、それだけで人の部屋をねぐらにするほど図々しくはない。この部屋は見るからに異様だ。家具も家電も最小限、部屋の持ち主の個性やルーツを示すものがない。とりわけいまさくらたちがいる六畳間など、さながら座敷牢のようなありさまだ。
引っ越してきたばかりなのか、誰かが来るのか、もうすぐ出て行くのか、いずれの質問にも春乃は不思議そうに首を横に振った。その浮世離れぶりにさくらは、この人は死ぬつもりじゃないかしら、と不安になった。身辺整理をしたのだと思えば、むしろ偏執的なまでの執着のなさにも納得がいく。見殺しにするのも夢見が悪いと思い、様子をうかがいに適当な理由をつけてふたたび部屋を訪れた日に、八並青が現れたのだ。
原田春乃は困っている人を放っておけないお人好しなのだろう、と安易に納得するには、さくらは年齢と経験を重ねすぎていた。結託しているのか、どちらかが騙されているのか、いずれにせよ、よからぬたくらみが行われている可能性は大いにある。そういう気配が同じ建物内にあるのは落ち着かない。不穏な気配が見えたらすぐ管理人か入江夫妻に相談しよう。このマンションには子供も多いし、簡単に出入りできる溜まり場のような場所がロビー以外にできるのは危惧すべきことだ。
さくらはスマホでペットカメラのアプリを起動して、二部屋離れた場所にいる大豆の様子を確認する。下の階の住人とのトラブルの際、なにかの証拠になるかもしれないと思い導入したものだが、幸い最近ではもっぱら平和な用途に収まっていた。大豆はお気に入りの場所である窓の前に陣取り、平和そのものの表情であくびをしている。思わず頬が緩み、つられてさくらのまぶたまで自然と落ちてきた。
枕、照明、パジャマ、そしてなにより、愛犬の安らかな気配と寝息。あらゆる方向から副交感神経を刺激しようと整えているはずの自分の寝室より、殺風景な部屋の床のほうがすんなりと眠れるのは不思議なことだ。ひとつだけわかるのは、この状況で寝首を搔かれても、きっと「まさか」なんて主張できないということ。ただ、たとえトラブルに巻き込まれ、自業自得だと笑われても、この安らかな時間には代えられない。
自分で「まさか」の縁に片足をかけながらも、まったくそれを避ける気が起こらない。それも、さくらにとって初めての経験だった。
403号室の座敷牢は、さくらの住む401号室では物置になっている。本来そういう使い方をする場所のはずで、403号室が異常なのだとさくらは思っている。季節ものの洋服や家電、大豆が飽きてしまったおもちゃやネットでまとめ買いするペットフード、夫のゴルフグッズやキャンプ用品、捨てられない保証書や契約書。ただ、中でも場所を取るのはさくらたちのものではない。母や妹がこの部屋を訪ねてくるたび、まるで菌が繁殖するように荷物が少しずつ増えていく。趣味の悪い食器、その場しのぎのビニール傘、安物のタオル。用意するよう言外に要求されたり、邪魔だからと置いて行かれたり、さまざまな理由で集まったそれらのものたちは、ひとつひとつは些末でも微妙に処分に困るから増える一方だ。とりわけかさばるのは来客用布団で、圧縮袋に入れても収納に入りきらない。しかも最近では、母親が電動ポンプ付属のエアーベッドまで送ってきた。あるぶんには困らないでしょ、と言って。
さくらが目覚めて六畳間の収納から出ると、八並青はパズルだけを残して部屋からいなくなっていた。靄がかかっていた頭は仮眠によってすっきりと冴え、肩や腰に淀んでいた濁った違和感は快い疲労にとってかわられ、心はつかえがなくなって晴れ晴れとしている。ここに着いたときに感じていた青への疑問やいらだちも引き、まあ、長い人生そういう時間も必要よね、と鷹揚に受け入れられていた。
居場所をなくした若者がつかのまのよりどころを見つけ、他者との交流を通して回復を試みる。映画や児童文学でもよく見た設定だ。風変わりだがじつは心優しく、折に触れて人生経験に基づくアドバイスまでしてくれるその場所の主人が、しだいに若者と距離を縮め、自分の心の傷を打ち明け、若者がそれを癒すことで成長を遂げるところまでがワンセット。重荷を下ろし、なんのしがらみもないありのままの自分に戻り、理想の場所へとまた出て行くためのサードプレイス。
みんな一度は憧れる筋書きだろうし、さくらもそうだった。少なくとも青のほうではそんなつもりでいるだろう。最適な昼寝の場所を求めて隣室へと移動しただけの、地に足の着いたおばさんとは、根本的に違うと思っていそうだ。
「あら、あんたなにしてんの?」
403号室から一歩出たところで、廊下に場違いな大声が響いた。
ちょうどエレベーターを降りてきた母と目が合い、天を仰ぎたくなる。一瞬早いか遅いかであればどうにかやりすごせたのに。昔から、この人とは致命的にタイミングが合わない。
「そこ、あんたの部屋じゃないでしょう。大豆ちゃんはほっといていいの?」
「ああ……大豆は留守番の訓練中だから」
「なあに、ここの人とはお友達?」
お友達、という言葉を母は昔からよく使う。距離感の読めない同級生、マウントばかりとってきた前職の同僚、やっとの思いで別れた元恋人でさえ、彼女にかかるとみんな「お友達」になる。べつに友達じゃない、とさくらが正直に答えると、どうしてそんな言い方をするの、と叱られた。ただの事実なのに。
「まあ、そんなところ」
「あらそう。よかったわね、同じマンションにお友達がいると心強いでしょう。大事にしなさいよ。お母さんが子供のころは、ご近所で助け合うのが当たり前だったんだけどね。いまの人はみんな冷たいというか、隣でなにが起こっていても無関心で嫌になるわ」
並んで玄関に入ると、大豆が尻尾を振りながらいそいそと近寄ってきた。あら大豆ちゃん、久しぶりねえ、と母は声のトーンを上げたが、子犬だったころのように全身を撫で回そうとしたり、無理やり抱き上げようとしたりはしない。大豆が一歳を過ぎたあたりから、母は「コーギーって思ったより大きくなるのね」などと言い、さりげなく距離を取るようになった。かわいいときだけ好きに甘やかして勝手だな、と鼻白みながらも、腰を痛めかねない誤った抱っこや分離不安を招く過剰な甘やかしといった数々の危険から、大豆が正しく逃げきれたことはさくらにとってありがたかった。
そそくさと洗面所に向かう母を後目に、さくらは大豆の眉間をそっと撫でてやる。あなたはいい子ね。あと少しだけ、私に元気を分けてちょうだいね。
「部屋、いつ来てもきれいにしてるわね」
モデルルームみたい、と言いながら遅れてダイニングに入って来た母に、だれかさんたちがいつもこうして急に来るからね、とさくらは内心で答えた。それからがらんどうの403号室を頭に浮かべ、あれに比べればそうでもないよ、と思う。だから私の暮らしを、悠々としていて、余裕があって、中身がないものみたいに言わないで。
「床に物を置くと、大豆がつまずいたりかじったりしたら困るから」
「こないだ朝子の家に行ったんだけど、足の踏み場もないっていう感じだったわね。ま、子供がいればあんなものでしょうけど」
このマンションは結婚当初、さくらの両親がお祝いとして実家の近くに買ったものだ。
義実家の近所に住むことには夫が難色を示すだろうと思ったし、現に最初はさくら自身、母にやんわりそう伝えて申し出を拒もうとしたが、意外にも、夫は経済的な理由を第一に手放しで賛成した。友達に相談しても「子供ができたら母親が近くにいるほうが心強い」「頼れる人がいるのに頼らないのは贅沢だよ」と説得され、舅や姑と同居させられている人の体験談をネットで読んだことも大きな追い風となって、最終的に申し出を受け入れざるを得なくなった。
両親はこのマンションの合鍵を持っており、こうしてしょっちゅう遊びに来る。今回は母ひとりだが、夫が単身赴任する前は父を伴うこともあった。姪の玲々を連れてくることがいちばん多い。さくらの妹で玲々の母である朝子が、しょっちゅう用事を作って家を空けるせいだ。仕事が忙しいのかなんなのか知らないが、まともに面倒も見られないのにどうして産んだんだろう、と思ってしまう。少なくとも大豆を引き取るとき、さくらは入念に自分の生活スタイルを見直し、家族や友人といった身内の助けを借りなくても済む方法を確立してから決断した。
「大介さんはお盆に戻ってくるの?」
「どうだろうね、夏季休暇は十月まで申請できるみたいだけど」
「病院や薬局なんか、お盆にはだいたいお休みでしょう。仕事があるのかしら」
「そこに合わせて営業の人とかが休むから、管理職はむしろ忙しいくらいなんだって」
「そう。じゃ、二人で旅行したり、あちらのご実家に顔を出したりもしないのね」
母はダイニングテーブルではなくソファに座り、大豆を足にじゃれつかせている。キッチンで羊羹を切りながら、曖昧な物言いにさくらは違和感を覚えた。娘の夫の仕事に知ったような口をきくデリカシーのなさにはもう慣れっこだが、あれを用意して、これをやって、と要求を率直にぶつけてくる母が、こんなふうに上目遣いに顔色をうかがってくるのは只事ではない。
こちらから促すべきか迷っていると、母はいかにもうわのそらな様子で大豆を撫でながら、極力なんでもないふうを装っていることがありありと伝わる口調で言った。
「あのねえ。夏休みのあいだ、玲ちゃんをここに通わせてやるわけにいかない?」
「……はい?」
朝子が国際恋愛の末に(これは本人と母の表現だが、単純にクラブあたりでイージーな日本人女と見込まれたのだとさくらは推察している)シングルマザーとして産んだ玲々は、身内びいきを抜きにしても彫りが深く浮世離れした美少女だ。ただ、母の「マイペースで自己主張をはっきりする性格は欧米の血が流れているから」という意見には賛同できない。彼女は父の故郷であるアメリカに一度も行ったことがないし、英語も苦手だ。単に母親に似て、周りが自分に合わせて動くのが当然だと疑っていないだけだろう。彼女に会うたびにさくらは、かわいさに任せて大豆を甘やかしすぎないよう気を引き締め直している。
「あの子の通ってる塾でね、セクハラ騒ぎが起こったの。男性講師が女の子を呼び出して……生徒のひとりが訴えてわかったんだけど、被害に遭った生徒が何人かいて、その中のひとりに、玲ちゃんも含まれるんじゃないかって」
母は珍しく自分から大豆のほうに身を乗り出し、そのふかふかした耳をもてあそびながら、おぞましげに身を震わせた。そうでもしないとやりきれないとでもいうように。
大豆が犬ではなく幼い人間の子供なら、母だって急にこんなことは言い出さなかっただろう。さくらはいらだちを覚える。なんの準備もなく、嫌な話を大豆に聞かせないでほしい。人の言葉を理解できなくたって、犬は汚い空気を敏感に嗅ぎ取る。
「玲々本人は、なんて言ってるの」
「訊けやしないわよ、そんなこと……ただ、相手は玲ちゃんのことがお気に入りだったみたいで、そうだって言われてるみたいなの」
「ああ、そうなんだ。あの子きれいだもんね」
ひと口大の羊羹をガラスの小皿に乗せ、薩摩切子のグラスに冷やしたルイボスティーを注ぎながら答える。母からの返事はない。さんざん、朝子はかわいいけど玲々は美人って感じね、と浮かれていたくせに、いざこうなるとこたえるらしい。
「もちろん塾にはもう行ってないけど、やっぱりショックだったみたいで。うちにいても、勉強が手についてないんですって。図書館や別の塾なんかに行かせたところで、あの子、目立つでしょう。同級生から変な目で見られてもかわいそうじゃない。もちろんうちでもいいけど、私もお父さんも留守にすることが多いから、一人にするのも不安で。その点、ここならあんたがいてくれるし、オートロックだから玲ちゃんも安心だし……」
「ねえ。それって、さあ」
ソファの前に置いていたローテーブルは、大豆が遊びやすいようにずいぶん前に撤去した。トレイに載せた羊羹とお茶をダイニングテーブルに運ぶと、大豆がすぐさまこちらに駆け寄ってきた。キッチンは危ないから入ってこないように言いつけたのを覚えていて、さくらが出てくるまで待っていたのだ。大豆は本当に賢い。
「お母さんが自分で思いついたの? それとも、玲々がうちに来たいって?」
もうひとりの名前はあえて出さなかったが、大豆がいなくなったにもかかわらず、母が同じ姿勢のまま動かないことで確信した。そして案の定、母はさくらが確信を持つことを待っていたように、予想したとおりの名前を口にした。
「朝子ね、そのことがずいぶんショックだったみたいで。いま、病院に通ってるの」
妹はいつも、要望を母を通じて伝えてくる。不妊治療を機に専業主婦である姉を、自分専属の家政婦だとでも思っているらしい。家という報酬を与えてさくらを雇っている母の許可さえ得れば、本人の許可は要らないと考えているのだ。
二つ下の朝子は昔から気が強く、自分の都合で家族を振り回し、なんでも思いどおりにしないと気が済まなかった。なまじ成績と外面はいいので両親も逆らえず、留学すると言われれば金を出して見送り、出産すると言われれば総出で情報を搔き集め、彼女が子育てのせいで「ふいにした」ものを取り戻せるように、時間も場所も惜しみなく与えてやった。
さくら自身も、そこに何度も駆り出された。口が上手い妹は周囲を丸め込んでいつのまにか味方につけてしまうので、気がつけば従うしかない状況に追い込まれている。それどころか、疑問を呈すれば朝子を中心に世界は巡ってしかるべきと言わんばかりの両親が、「なんでそんなことを言うの?」と、さもこちらが薄情かのように追及してくる。そしてなにより、朝子自身がさくらが言うことを聞かないと露骨に不機嫌を顔に出し、従うまで決して逃さないのだ。
そんな彼女も、一児の母となってからは落ち着きを取り戻した――と、母は思いたがっているらしい。ただ、さくらにしてみれば、べつに暴君ではなくなったわけではない。帝王学を学び、より効率よく周りに言うことを聞かせる方法を学んだだけだ。
――さくちゃん、繊細すぎるよね。あれじゃ出来るものも出来ないよ。
さくらの不妊治療中、朝子は母にそう言ってのけたという。
そんな妹が、病院に通っている。母がその事実をいかにも深刻な調子で口にしたのは、おそらく自分がそういう調子で伝えられたからだ。もちろん病院とは心療内科のことだろう。この状況で外科や耳鼻科、ましてや産婦人科に通うわけもない。
奇遇ね、私もよ。いまの場所には不眠症の治療で一年。その前も含めると、もう何年になるかしら。だからなに? あんなの、全然大した場所じゃない。
そう言ってやりたいが、母に言ったところで妹には届かない。そしてもちろん、知恵を得た暴君はそのことも承知の上で、老いた親に伝言を委ねているに違いないのだ。
「大丈夫、勝手に来て勝手に帰るだけ。あんたに負担はかけないよう言っておくから」
「そういう事情なら、もちろん、力になってあげたいけど」
ふんふんと鼻先を寄せてくる大豆に、干し芋スティックを差し出してやる。このうちにおいて、大豆をさしおいて人間だけがおやつを食べることをさくらは断じて許さない。
「言いにくいんだけど、大豆がね。玲々のことが苦手みたいなの。あの子昔、自分のおやつのクッキーを、私の目を盗んで大豆に食べさせたことがあって。その夜、大豆、お腹を下して入院までしたの。それから玲々くらいの若い女の子を見ると怖がるようになって。だからそれ以来、あの子が遊びに来るってなったらなるべく、夫に大豆と出かけてもらってるの」
「初耳だわ」
「そりゃあ、私から言うわけにいかないもの」
玲々が、さくらの許可なく大豆におやつを与えたのは事実だ。当然きつく咎めたが、だって食べたそうにしてたんだもん、と悪びれた様子もなく憮然する顔は、その他責思考まで含めて母親そっくりだった。母がその騒ぎ自体を知らないのは玲々が朝子に伝えなかったか、伝えられた上で朝子が母に報告しなかったか、どちらかだろう。自分に都合のいいことは筒抜けのくせに。
「夏休みはペットホテルも繁忙期だから、いまから探すのも難しいし。さっき言ったとおり、今年は夫のことも頼れないし……寝室にいさせようにも、コーギーは狭い場所に閉じ込めておくと不安がってかわいそうだから」
「じゃあ、隣のうちの人に頼めないかね?」
ぽろりとさくらの手からこぼれた干し芋スティックを、大豆は舐めるようにして食べた。毎日ルンバできれいに掃除しているとはいえ、普段は床に落ちたものを犬に食べさせるなんて、まるで人との格差を見せつけるような下品なことは絶対にしない。
「図々しいこと言ってごめんなさい。だけど朝子と、それになにより、玲ちゃんの気持ちを思うとね。いてもたってもいられないの。あんたくらいしか頼れる人もいなくて。でも、やっぱり無理よね、あんたにもあんたの生活があるし、大豆だってもう、あんたの子供みたいなものなんでしょう?」
もっとください、とねだるように上目遣いしてくる大豆の額を、もうおしまい、とさくらは押し返す。必要以上に力がこもってしまわないよう気をつけながら。
母は優しい人だから、さくらの意思を無視することは決してない。朝子が家族に強権を振るえば振るうほど、そのぶん母は下手に出る。嫌なら断っていいよ、と言いながら、ごめんね、と謝りながら、神様にでもすがるような悲痛な表情で、自分に免じて許してほしい、理不尽を受け入れてほしい、と頼んでくる。行きすぎた遠慮と謝罪は暴力だ。
さくらが仕事をやめてまで始めた不妊治療を断念したとき、両親はなにも言わなかった。いまどき子供がいないことくらい普通だという、学びたての多様性に基づくスタンスでさくらを許してくれた。許すことは、相手より優位に立たないとできない。
夫はいないが子供だけは死守した妹と同じ単位を持たない自分には、彼女と同じように「嫌」や「無理」を言う権利はない。おまえにその権利はないとは表立っては言われないが、うっすらと、羊羹のようにぬるい冷ややかさで「何様だ」が家中に漂っている。
玲々も朝子も母も、この部屋に来ると自宅、いや、別荘のようにくつろぐ。彼女たちがなにかとここに足を運ぶのは、自分を慕っているからではないとさくらはわかっている。彼女たちの気持ちもわからなくはなかった。いまどきはサードプレイスだって危険がいっぱいなのだから、身内が管理している場所がそれであるに越したことはない。
自分は一生、彼らのサードプレイスの管理人なのだ。望まれたらいつでも明け渡さないといけない場所だとしても、持ち家があるだけでありがたいと、思わなくてはいけない。
「お母さん、とりあえず甘いものでも食べたら? 気分が落ち着くよ」
本当に原田春乃が引き受けてくれたらいいのに。もちろん大豆ではなく、玲々を。なにせどこの馬の骨とも知れない北側の住人でさえ、鍵もかけずに平気で部屋に上がらせているくらいだ。きっと誰が出入りしようが、風が通り抜けるようなものだろう。
ひとまず言うべきことは言ったと満足したのか、母はさくらが用意したものをきれいに食べ終えてから、逃げるようにそそくさと帰っていった。
いつもはすぐに洗い物を済ませるが、今日はそんな気になれなかった。ダイニングチェアの一脚に座り、脱力するさくらに大豆がそっと身を寄せてくる。慣れ親しんだ体温を足元に感じながら、さくらはようやく自分のもとに戻ってきた気がする部屋を見渡した。
角部屋の特権で大きな窓が二か所にあり、どちらもブラインドを掛けてある。カーテンより破れにくいし汚れても水拭きできるから、大豆を迎える前に取り換えた。ソファには丸洗いできるカバーをかけ、飛び降りても腰に負担が少ない低さを重視した。いちばん気を使ったのはカーペットだ。粗相やいたずらにも対応でき、噛みちぎっても誤飲せず、かつ滑りにくい素材を厳選し、フローリングに近い質感のジョイントラグを敷き詰めてある。
ここは正真正銘、大豆のために用意された空間なのだ。やっと慣れてきたうちを勝手に追い出され、勝手に呼び戻され、機嫌のいいときだけ撫で回されるような理不尽な役割を、私だけは、決してこの子に背負わせてはならない。
握ったままじっとりと汗をかいて垂れ下がった拳を、大豆がふんふんと嗅いでいる。おやつの残り香を嗅ぎ取ったのかもしれない。そっと手を開くと残念そうに視線を落としたが、その手で眉間を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めた。
大豆が来てから、さくらの人生は好転した。悪いものは遠ざかっていったし、予想外の味方もできた。自分の理屈を通せるほど口が立つわけでもない、嫌なものをきっぱり拒絶できるほど意志が強いわけでもない、頼れる人脈もない。そんな自分が無事に生きていくためには、とにかくその場に溶け込み、周囲を味方につけることが大事なのだ。
大豆、本当にいい子。私が与えたぶんだけ返してくれるのは、世界であなたひとりだけよ。大丈夫、私もそのぶん返してあげる。あなたのおうちは、私が守ってあげるからね。
昔から、夏は体感と時計がずれるから苦手だった。十九時過ぎまで暗くならないから、つい一日を終わらせて夜を迎える準備をしそこねてしまう。背を向けて走ってゆく眠りをどうにか追いかけようとするのに、四時にはもう外が明るくなってきて、強制的に次の朝の始まりに捕まってしまう。クリアでもゲームオーバーでもない、消化不良の一日が自分の体内に積み重なり、わざと意地悪い置き方をしたジェンガのように不安定に揺れつづける。
ブラインド越しに窓の外を見て、まだあかるい、もうあかるい、と感じるたびに、さくらは大縄跳びの輪にひとりだけ入れなかった、内気な子供のころに戻ってしまったような気持ちになる。正しく寝ては起きるサイクルを繰り返す社会を傍目に見ながら、はやくはやく、と急かしてくる無言の圧力を全身に受けて、視線だけを上下させながら立ちすくむ。あちら側で跳びつづけるみんなもしだいに疲れていらだってきて、縄が地面を打つ音、着地する足音が、はやく、はやく、としか聞こえなくなる。こっちだって怠けているわけではない。いつでも輪に入れるよう、真剣にタイミングをうかがっているのに。
はやく、はやく、あなたさえうまくやれば万事解決する。世界は円滑に回りつづける。みんな、あなたがこの場をどうにかするのを待っている。だから、ねえ、はやく――
「あ、石川さん。おはようございます」
「……おはよう。早いのね、原田さん」
「起きていたんです、なんだか寝そびれて。夏ってずっと明るいから、つい、夜を迎える準備をしそこねるんですよね」
エントランスで遭遇した半透明のゴミ袋を手にした原田春乃は、徹夜明けとは思えないほど背筋が伸びていた。
くたびれたロックTシャツとロングスカートにいつものクロックスをつっかけ、髪はぴっちりとひとつにまとめている。さくらの足元にかがんで大豆と視線を合わせ、ゴミ袋を置いて片手まで挙げて「はじめまして」と生真面目に挨拶するので少し笑った。
「こーら。だいちゃん、だめですよ」
大豆が挨拶そっちのけでゴミ袋にすり寄っていったので、さくらは急いでリードを引っ張る。そうしながら不思議な心地がした。大豆はこの人の、部屋を訪ねたところで限りなくゼロに等しい生活臭を嗅ぎ取っているのだ。
「石川さんも眠れなかったんですか」
「私は、この子の散歩があるから。夏はすぐアスファルトの表面温度が上がるし、夕方は日が落ちてもしばらく輻射熱がこもっているし、この時間しか満足に散歩できないの」
「ああ、なるほど。毎朝お疲れさまです」
「ねえ原田さん、大縄跳びは得意だった?」
脈絡のない質問に目を丸くしながらも、春乃は「いいえ、苦手でしたね」と即答した。彼女にとってそれは、遠い記憶をたぐりよせるまでもない、厳然たる事実らしかった。
「最後まで輪に入れなくて、ずーっと縄が上下するところを見ながら、前後に揺れているタイプでした。こう、赤べこのように」
「……そう」
私も、とは言えなかった。輪に入りたいです、という意思表示のために揺らしていた、体の動きまでどうやら一緒らしいのに。大縄跳びが苦手だったことなんて大人になればただの笑い話だし、現に目の前の相手だって、いまやなんの引け目もないらしいのに。
さっきだって、不眠症のことはこの人にはとうに知られているにもかかわらず、まるで大豆の散歩があるから努力して早起きしているような言い方をした。嘘をついてはいないし、騙すつもりもない。単にそういう話し方が癖になっているのだ。実際は、大豆の散歩によって漫然とした時間の流れにメリハリができて、救われているのはさくらのほうだった。
さくらは原田春乃がゴミ集積所の鍵を開けるのを待つともなしに待ちながら、さっき他人のゴミ袋に触れた大豆の顔に、汚れがついていないか確かめる。鼻、舌、耳、肉球。犬の粘膜は瞳と同じくらい雄弁だ。むしろ目を見ると「かわいい、守らなくては」という庇護欲で冷静になりにくいが、しっとりとした粘膜からはいつも純粋な情報と、それを相手に委ねる無防備な信頼が伝わってくる。
「八並さんは、得意かもしれないですね」
並んでエントランスに戻りながら、春乃がつぶやく。さくらは彼女が「高跳びをやっていたそうなので」と続けるまで、自分が直前に大縄跳びの話をしたことさえ忘れていた。
「あの子、そうなの」
「はい。高校生のころ、インターハイっていうんですか、あれの代表選手だったそうです」
「見かけによらず体育会系なのね」
春乃が自分の鍵でオートロックを解除しながら、不思議そうにさくらを見た。
切れ長の瞳は大豆より白目の面積が広く、丸というより笹のように横に細長い形で、当然ながら、大豆のほうがずっとかわいいし見つめられて心地いい。にもかかわらず、彼女と視線を合わせたときにさくらが覚えた居心地の悪さは、大豆がこちらをまっすぐ見上げてきたときに覚えるものによく似ていた。
「私、なにかおかしなことを言った?」
「いえ、おかしくはないです。ただ、見かけによらずとおっしゃったので、石川さんには八並さんがどう見えているのかと思って」
「いや、それは……わからない?」
質問で返して矛先を逸らしたつもりが、直球で「はい」と打ち返された。
「私は、八並さんが運動が得意か苦手かなんて、本人に聞くまではわかりませんでした。姿勢のいい人だとは思いましたけど」
彼女は集合ポストを(無防備にもさくらの前で暗証番号を合わせて)開け、中の確認を始める。間の悪いことに不動産やデリバリーのビラが多めに溜まっているらしく、仕分けるのを待つあいだに同じ話題を続ける時間ができてしまった。
いまはどうだかわからないが、さくらが子供のころは運動が苦手というだけで、成績がよくても、容姿が優れていても、それだけで下に見ていい存在としてランクづけされた。むしろほかの部分が優れているほど、騙されたと言わんばかりに減点の対象になった。努力ではどうにもならないその事実を悟ってしまったら、早々に道化に転ずるしか生き残る道はない。笑われているのではなく、私が望んであなたたちに笑いを与えてあげているのだ、という顔をして、体育の成績なんかよりよっぽど重大な価値基準が出てくるまで根気強く耐えていれば、やがて、それが真実になる。
そんな簡単なことにも気づかず、体育の授業でグループからあぶれて所在なげに地面を睨む子供たちをさくらはたくさん見てきた。これ以上、無駄にあがいて自分の至らなさに絶望したくない、でも笑い者にされるのは耐えられない。身の丈に合わないプライドのせいで孤立しているくせに、おまえたちが悪いと言わんばかりの拗ねたオーラを隠さない彼らは率直に言って目障りだった。子供のころですらそうなのだから、大人になってからはなおさらだ。
じっとり黙って地面を睨んでいれば、だれか、世間からつまはじきにされる孤独を理解してくれる人が現れて、ふさわしい居場所を用意して手厚く保護してくれる。そんな贅沢が許されるのは、犬だけでいいのに。
「なんだろう……彼女、おとなしい感じだから」
我ながら苦しい言い訳だったが、春乃はエレベーターを待ちながら「たしかに。運動神経と性格は直結しないのに、運動ができる人にはなぜか明るい印象がありますね」と、真剣に考えている様子だった。
「そうでしょう。こう、筋トレさえすれば万事解決、努力はかならず報われる、健全な精神は健全な肉体に宿る、みたいな、そういう感じ」
「私たちが目にするのはほとんどが成功したアスリートだから、よりそういうイメージがつくのかもしれませんね。無意識な偏見なのかも。ギャルとヤンキーは正義感が強いとか、犬好きに悪人はいないとか。そうとは限らないのに」
そう言いかけて、春乃はすぐ「石川さんのことじゃないです」と付け足した。表情は変わらないがテンポがやや速かったので、彼女なりに失言して焦っているのだとわかった。
「いま、言いながら気がつきました。明るい内容でも偏見は偏見だから、押しつけていい理由になりませんね……そうか。だから私、八並さんが好きなのかもしれません。ステレオタイプというか、こういう人はこうあるべきという思い込みから自由で、いつでも八並さんだから。もちろん、イメージどおりの人が悪いということではありませんが」
ひとり納得したようにうなずく春乃を後目に、さくらはぎゅっと大豆のリードを握る手に力をこめた。あれだけ好き勝手にさせている以上、嫌いではないのはもちろんわかっていたが、春乃が青を「好き」と明確に口に出したとき、さくらは心臓がどん、と内側から自分の胸の間を蹴るのを感じた。
「そういえば、八並さんで思い出しました」
エレベーターから下りて右手に曲がると、403号室の前に先に到着する。別れの挨拶になにを口にするか逡巡していたとき(おやすみなさい? また今度? さようなら?)、先にそう言ったのは春乃だった。
「お菓子のお裾分けを頂いたんです。石川さんも少しどうですか」
「八並さんから、受け取ったの?」
私が手土産を持っていったときは断ったのに、という意味を込めて訊いたが、ええ、と答える春乃には言外の含みは伝わらなかったようだった。
「先日、ご実家からお父様が上京して、そのときに渡されたそうです。ひとり暮らしだってことも考えずバカみたいな量を、私じゃなくて八並さんがそう言ったんですが、持ってこられて、ひとりで食べきれないから人助けと思ってもらってくれと頼まれまして」
「お父さん、このマンションにいらしたの」
「外で食事をしたらしいです。少し遅いけど、父の日のお祝いにお勧めの店はあるかって相談されました。私は役には立てませんでしたけど」
「そう……仲がいいんだ、ご家族と」
さくらの曖昧な返事を意に介さず、春乃は「すぐ取ってきます」と部屋に戻っていった。
自宅を前にして立ち止まった飼い主を、大豆が不思議そうに見上げている。撫でてやろうと身をかがめると腿と腰のあいだに固い感触があり、ポケットにスマートフォンを入れていたことを思い出した。ふと姿勢を戻し、スマホを取り出す。
「お待たせしました。これ、都内のデパ地下だといつも行列だけど、群馬銘菓だってご存じでした? こっちは地元の小麦を使っていて、チョコ味は地方限定だそうで」
「本当だ。八並さん、大学まで高跳びの選手だったのね」
得られたばかりの情報に興奮したさくらは、戻ってきた春乃の言葉を聞き流し、並んで一緒に見下ろせるようにスマホの画面を掲げた。
風変わりな苗字と名前、その漢字表記がわからないせいで(誤配の確率が上がるのに集合ポストにネームプレートを掲げないのは、北側の住人の御多分に漏れない)いままでは情報を得ることができなかった。そこでためしに聞いたばかりの「陸上」を一言加えてみたら、まるで発掘作業でツルハシの一撃を加えたように、それまで拓けなかった世界がたちまち広がった。フルネームの正しい表記は八並青。出身高校の陸上部のホームページの集合写真、勤務先だったらしいスポーツジムのインスタグラムの紹介文。大学時代はファンがつくほど活動していたらしく、動画投稿サイトに競技中の様子まで投稿されている。
「高跳びってどんな感じなのかしら。原田さんも見る?」
そう言って顔を上げたとき、さくらは初めて、春乃がスマホなどそっちのけでじっとこちらを見つめていることに気がついた。さっきは大豆のまなざしと少し似ていると思ったが、やっぱり違う。少なくとも大豆は、人を「軽蔑」などというおこがましいことはしない。
「いつも、こういうことをしているんですか?」
無愛想な口調にはもう慣れたが、普段の平淡さとはあきらかに様子が違った。
「こういうって、なに。八並さんの名前を検索したこと? だって気になるじゃない。困る内容でもないし、インターネットに書かれているくらいだから、だれでも見られる情報でしょ」
「八並さんが書けと頼んだわけではないし、困るかどうか、決めるのは彼女です」
「……だって、あなたが言ったんじゃないの」
「そうですけど……」
「それとも、詮索されたら困る事情でも知っているから庇ってるの? そういう秘密の共有って、当事者でいるぶんには楽しいものね。周りはたまったものじゃないけど」
退屈そうに廊下に伏せていた大豆が、異変を察してひょこんと右耳を持ち上げた。
「原田さん、このマンションの理事の順番はもう回ってきた?」
唐突な質問に、春乃は「いえ」と答えた。勢いづいて言葉を続けようとした矢先に「この部屋は、元の持ち主から借りているので。そういうものは巡ってこないんです」と返され、それを聞いた瞬間、さくらは自分でも驚くほどの動揺と憤りを覚えた。
「そう。道理でね。北側の若い入居者に、管理組合がいままでどれくらい悩まされてきたか知らないでしょう。ゴミは適当に放り出しておけば勝手に消えるもので、宅配ボックスは自分専用のコインロッカーで、少しでも雰囲気を明るくするためのロビーの飾りつけなんか目にも入らなくて、このマンションに住んでいるのは自分ひとり。そのくせ、注意書きの張り紙だけは自分以外のだれかのことだと思って見もしない。清掃事務所に叱られないようにゴミを仕分ける管理人も、宅配ボックスが満杯で荷物を持ち帰る配達業者も、挨拶を無視される住人も、あなたたちにとっては存在しないも同然、自動で同じセリフと動作を繰り返すだけの脇役なんでしょう」
最初は弁明だったはずの言葉は、口にするほどに攻撃性を帯びていく。そしてそれは、とうにやりすごして忘れたはずの苦労をさくらに思い起こさせて、あのころ感じそびれた怒りを新鮮に呼び戻す。
「あなたと八並さんが仲良くするのは勝手だけど、自分のうちを溜まり場みたいにされて、不安な思いをするのは周りの住人なの。何年か前にこのマンションのロビーが、うるさい若い人たちの溜まり場になりかけたのは知っている? 興味がないから覚えてもないか。いざとなったら出て行けばいい人たちと違って、ここに住みつづけるしかない人間はそういうことにものすごく不安を覚えるの。自分がどれだけきちんとしてみせても、同じ空間に厄介者が出入りするだけでまるごとレッテルを貼られて遠巻きにされて、腐ったミカンみたいにどんどん荒んでいく。集団で住むってそういうことなの、知らないでしょ」
「知っています」
春乃は目を丸くしてこそいたものの、そう答えた口調は反論ではなく、すでに普段の公正さを取り戻していた。
「よく、わかります」
いいえ、とさくらは内心で反論する。子供ができる前提であてがわれた部屋に、素知らぬ顔で住みつづけるいたたまれなさ。自分の家族から別荘か避難地の管理人程度にしか扱ってもらえない屈辱。どれだけ「まさか」に備えたところで、いきなり訪れる理不尽に自分の時間と空間を奪われる痛みが薄れるわけではない、その、自分の人生そのものが根こそぎ奪われていくような絶望なんか、あなたにはわからない。だれにもわかるはずがない。
急に来る嵐に人生を奪われないようにするためには、置かれた場所に根を張らなくてはいけない。たとえ風が吹き荒れても、大地のほうが自分を手放さないでいてくれるように。
「気をつけたほうがいいわよ。あの子だっていまは遠慮しているかもしれないけど、一度でも許してしまえば、次はこれ、今度はあれ、って、どんどん図々しくなっていくのが人間というものだから。そのうち、あなたの居場所のほうがなくなるかもしれない」
「私は、自分に許せることしか許していません。八並さんにも、石川さんにも」
わふ、と足元で小さく大豆がくしゃみをした。
そのまま、春乃が手にした紙袋に興味深そうに鼻を寄せていく。強くリードを引く手には予想外に力が入った。ごめんなさい、とだれにともなくつぶやいて、さくらはその勢いのまま春乃に背を向け、401号室の鍵を開けて玄関に飛び込み、ドアにもたれるようにへたり込んで大豆を今度こそ力いっぱい抱きしめた。
自分の名前を八並青と並列にされたことが、さくらはショックだった。私はただ、あの部屋でなにが起こっていて、これからなにが起こるのかが心配だっただけ。だから理由をつけて通っていたら、たまたまそこでは自分の悩みも解決することを知っただけ。原田春乃が、不当に居場所を奪われないように手伝ってあげようとしただけ。それが余計だったっていうの?
血の気が引くようにさくらの目の前が暗くなっていく。貧血と睡眠不足の限界が来たのだ。403号室で感じるような、起きたらすべて好転していると信じられるような、心地よい眠りではまったくなかった。それはもう自分の手で放してしまったことを、さくらは無意識のうちに理解していた。
さくらが八並青の存在を認識したのは、403号室が初めてではなかった。
大豆と朝の散歩に行くときにたびたび遭遇したし、その時間から起きている住人は多くない。なにより、彼女と同じ五階に住む入江夫妻が「次は当たりだといいけど、挨拶もないからどうだろう」と懸念していたので、五階から下りてくるエレベーターに乗った若い女を見るたび、あ、となんとなく意識はしていた。
感染症対策が緩和されてもマスクを外さず、こちらが声をかけてもイヤホンでほぼ聞こえない様子だった。目が合うと会釈をするし、エレベーターで乗り合わせると大豆のために「開」ボタンを押してくれたので、おそらく根っからの悪人ではない。それでも、一回分の「おはようございます」や「こんにちは」が宙に浮き、少しして顔を上げた相手が「どうしてこんなところに人が?」とでも言いたげに少し目を見開くたびに、気分よく飛ばしたシャボン玉がぱつんと割られるような気配が胸の中で音もなく動くのを感じた。ただ、まあいいや、とも思っていた。単身者用の「北側」は二年契約で貸し出されているし、生活環境が変わりがちな若い人はさほど長居しない。少しくらい、寛容にやりすごせばいい。
火災報知器が鳴った雨の日、さくらはいったん入江夫妻に付き添ってマンションの中に入った後、雨で気温が下がったロビーで話し込む彼らのために、近所の自動販売機にコーヒーを買いに行った。戻ってきたとき、見覚えのある小柄な背中が駐輪場に入っていくのを後ろから目にした。それで察した。
ああ、そうか。今度の504もハズレだったか。
そう思った瞬間、さくらが感じたのは失望と、少しの安堵だった。
それまでは青の態度に対する些細な違和感を、さくらがとくに意識することはなかった。相手の姿が見えなくなれば忘れてしまう程度のことで、蓄積されていたことにも気づかなかったし、なにより、自分を狭量な人間だと思いたくなかった。だが今回の一件で相手があきらかな非を負って、初めてさくらは「自分が傷ついていた」と認める正当な権利を得た気がした。
なんだかちょっと、いやだったんだな、あれが。
そう、あらためて噛み締める。彼女と顔を合わせるたびに少し、ほんの少しだけ、神経が磨り減っていた。そしてずっと同じ場所が同じだけ、少しずつ少しずつ磨り減っていき、いつのまにか心の隅に小さな黒い染みを滲ませていた。毎日お風呂上がりに掃除と換気を欠かさず行っていても、気がついたら沈着してしまっていたバスタブの黒ずみのように。
仮眠のとき、さくらはいつもアラームをかけない。タイムリミットを意識して逆に寝つけなくなるし、403号室で横たわっているときには必要がない。そのせいか、睡眠時に鳴る音を緊急事態に結びつける回路は、さくらの脳に強く根づいている。
八並青が火災報知器を鳴らした日も、珍しく心地よくうたた寝に入りかけた矢先にわうんわうんと大音量が響いて叩き起こされた。意識が落ちたほんの数秒を「寝た」と脳が認識したせいか、無事に帰っても寝直せず、もちろん体は回復していなくて翌日まで響いた。あのときも、寝る環境を万全に整えたベッドではなく、こうしてソファに横たわっていた。
うっすらと開いた目で、まずは大豆の姿を探す。ソファに前足をかけている彼の様子はいつもどおり無邪気だ。その大豆が好奇心いっぱいに見つめる先にはスマートフォンが伏せてある。ようやく手を伸ばして確認すると、見覚えのあるアイコンからのLINE通話の着信だった。
最初から気づくべきだったと、溜息を押し殺して重い上体を起こす。
母も父も夫も、電話をするほどの用があるなら「いま電話していい?」と、LINEのメッセージなりメールなりで事前に許可を取る。たとえ家族であっても、人の時間を自分のために使わせることの責任を、多少なりともまともな相手なら承知しているはずなのだ。
嘘か本当かわからないが、鬼嫁や嫌な上司からの着信音だけ、ダース・ベイダーのテーマに変える人がいるという笑い話を聞いたことがある。それを知ってさくらは心底不思議だった。その人はスター・ウォーズが好きなんだろうか。好きな映画を見るたび憂鬱になるようなことを、なぜわざわざするんだろう。大切なものは、決して苦手なものと結びつけてはいけない。憂鬱をごまかすどころか逆に侵食され、せっかくの快さや尊さにまで泥がついてしまう。それが心のよりどころなら、なおさら極力距離を取り、厳重に封印して、信頼できる相手にしか、絶対に触れさせてはいけないのに。
「はい」
『さくちゃん、いま大丈夫?』
形式的でも訊くようになっただけ、妹も少しは社会性を学んだのかもしれない。
生返事をしながら時計を確認すると、昼を回ろうとしていたので驚いた。何時間寝ていたのか、とっさに脳内で逆算する。大豆の散歩から帰り、その途中で原田春乃と遭遇して、くだらないことで言い合いになった。思い出したくない記憶にもう一段階、黒い絵の具を二度塗りしたように胸が重くなる。
403号室にまた行くことはできないだろうし、ひとつ屋根の下、並びの部屋に折り合いの悪い相手が住んでいる生活がどういうものか、さくらは身に沁みて知っている。入江さんにでも今度、北側の住人があそこに出入りしているとさりげなく伝えて牽制してもらおうか。そうすれば、もしなにかトラブルが起こったときにはこちらが守ってもらえる。そういう根回しが住みやすい環境につながるのだ。自分の居場所は、自分で作らないといけない。
『お母さんに聞いたんだけど、誤解だから。さくちゃんの犬が入院した件』
「お母さんが話したの? 玲々が気にするだろうから、言わないでって頼んだのに」
『いや、逆になんでそんなこと頼んだの? うちの子が本当になにかしたんだったら、私が親として責任とらないといけないじゃん。犬とはいえ、さくちゃんにとっては子供同然なわけでしょ?』
あきれたように訊き返されて、たしかに正論だ、と思う。自分の思いどおりにならないものを従えるための、武器でしかない正論だ。昔からこうやって、納得できないことは相手の事情を一切無視した理屈でねじ伏せてきた子だ。母に口を割らせるなど、赤子の手をひねるようなものだったろう。
犬とはいえ、という棘のような一言を、さくらは慎重に心から取り除こうと努める。うわべだけ社会性を身につけようと、けっきょく妹の本質は変わらない。人の大切にしているものにずけずけと触れておきながら平気で値踏みし、軽んじ、おまえ以上にこれのことはわかったという態度をとる。それらの棘がひとつひとつさくらの心を化膿させ、膿を移してしまいそうで大事なものに触れられなくなり、けっきょく最後にはそれを手放してしまう。
ただ、ひとつひとつは些細なせいで、人に訴えても理解はしてもらえない。母だって、きっといまの言葉を伝えても「気にしすぎ」とたしなめるだろう。あの子も親になってずいぶん角が取れた、いちいち昔のことを根に持つな、とでも訳知り顔をするだろう。さくらが初めて好きになったアイドルを見て、朝子が「どこがいいかわかんない」と鼻で笑ったときと同じように。
今度こそ、そうはさせない。大豆だけは。私の、大切な家族だけは。
『ねえ、それって本当に玲々があげたおやつのせい? なにかほかに心当たりないの、床に落としたものでも食べたとか」
「それはない。玲々は、大豆になにもあげてないって言ってるの?」
『いや、クッキー半分くらいかじったって』
どうしてそれで堂々と無罪を主張できるのかとあきれながら、さくらは興味津々で目を輝かせる当の大豆の眉間を撫でた。大丈夫、大丈夫。このうちは、私が守ってあげる。
「犬が身近にいないとぴんと来ないかもしれないけど、クッキー半分くらいなら大丈夫というわけじゃないの。犬は体も小さいし、人間よりアレルギー物質に大きく反応が出るんだから。キシリトールの入ったガムなんか、半分どころか五分の一で致死量って言われてて」
『アレルギーってなんの? 乳製品?』
「小麦粉。うちではパンやスナック菓子だって食べないようにしているくらいだから、偶然別のもので具合を悪くした可能性はないの」
『じゃあ余計にありえない。玲々が犬に食べさせたのは、豆腐のクッキーだもん』
撫でられるがまま心地よさそうに目を細めていた大豆が、唐突に動きが止まった主人の手を訝しそうに鼻先でつついたのがわかった。
『あの子、中学生になってから芸能事務所に入ったのは知ってるよね。まあ、なにをするでもないけど研修生みたいな? で、小麦粉を食べるとニキビができるからって、それから普通のお菓子は我慢しているの。本人も覚えてた。名前が大豆だから共食いだねって話しかけながらあげたから、間違いないってよ』
テレビドラマで見た弁護士のように流暢な弁明だった。事実をあきらかにして娘の名誉を回復するためだけだとしたら、あまりに前のめりだし周到すぎる。この勢いに任せて話を有利に進め、その先の目的地まで突破しようとしているのが明白だ。
『ねえ、聞いてる? だからね、誤解なの。犬が玲々を怖がってるっていうのもさ、なにかの間違いじゃない? だいたいそれ以来はほとんど犬を見かけてもいないって本人も言ってるのに、どうやって犬がうちの子を怖がってるってわかっ――』
ふいに、流れるような弁舌が止まった。
一瞬のその空白は、さくらの不自然な沈黙を浮き彫りにしたらしい。かすかに息を呑む音が電話口で響き、それから、懇願するように細くやわらかく装われていたはずの声が、覚えのある鋭さと荒さを帯びた。
『ああ……なーんだ、そういうこと』
さくらは大豆の眉間から手を離し、寄ってくる鼻先を避けるようにソファの上で体育座りをした。大豆から逃げるためではなく、むしろ守るために。大切なもの、生きがいと言えるほどかけがえのないその手触りは、絶対に、憂鬱や絶望と結びつけてはいけない。
『あきれた。いい歳してつまんない嘘ついてまで、あの子をうちに呼びたくないんだ』
あの子も成長して丸くなった、と母は言ったし、たしかにそれは事実だった。現に昔なら、こちらの言い分も聞かずに頭ごなしに怒鳴りつけてきただろう。ただ一方で、さくらの考えも当たっていた。妹がそれをしなくなったのは、角が取れたり棘が抜けたりしたからではない。より効果的、いや、致命的な刺し方を学んだだけだ。
『玲々が、さくちゃんになにをしたっていうの? むしろあの子は慕ってるけど、さくちゃんは優しいからって。そりゃそうだよね、最終的にはなんにも責任がないんだから』
本人も想定していなかったはずの一言で、かちりとスイッチが入った手触りが伝わった。
『さくちゃん、昔から成長してないね。都合悪いことがあったらしれっと嘘をついて、周りを味方につけて、外堀を埋めて相手を孤立させようとすんの』
ますます小さく丸まりながら、さくらは心の中だけで反論する。
だって、本当の気持ちを言ったところで納得してくれた? さっきみたく、納得できなければ無視して自分の理屈でねじ伏せるだけなんじゃないの? いい大人がなんでも正直に話せばわかりあえるなんて、そっちだっていまさら信じてないでしょう。私は、やっと手に入れた自分の安らげる空間で、大切なものを守りたい。いつ来るかわからない嵐にずっと怯えて、来ないときまで「まさか」に備えつづける人生で終わりたくないだけ。
『もしかしてさ。玲々がそういう目に遭ったかもしれないの、あの子がかわいいからとか隙があったからとか、まだ思ってる?』
なかば受け入れを拒否しかけていた脳に、まだ、という一言がひっかかった。妹のほうも、わずかに浮かんだその疑問を敏感に察したらしい。家族というのは不便だ。仲がいいわけでもないのに、ときどき、互いの考えていることが手に取るようにわかってしまう。
『私が昔、おかしな男の人につきまとわれて泣いて帰ったとき、さくちゃん私に「朝子はかわいいからね」って言ったんだよ。それ、変な目に遭わされるのはおまえのせいって言ってるのと一緒だからね。慰めてるようで、自分にはそんなことまさか起こるはずない、関係ないって人を切り離してるだけだから。私にはまだいいよ。でも、玲々のことまでそういう目で見て、ましてや自分が安心するための材料に利用するのは許さない』
いつまで昔のことを引きずっているつもり? なんでも人のせいにしないでよ。そんな昔のこと、どうせ自分だっていままで忘れていたくせに。そう、正面から言える関係だったらどんなに楽だろう。
『大丈夫、お母さんとお父さんには言わないから。私はさくちゃんと違って、自分の株を上げるためにだれかを下げたりしない。お母さんもかわいそうだしね、信頼してる長女が犬のせいにしてまで姪を見捨てたなんてあの歳で知っちゃうの。そこまでして来てほしくないなら、こっちだってそんな場所に大事な娘を行かせたくない。ただ、想像だけはしてみてよね。あの年頃の子が、信じていた大人に裏切られたときにどんな気持ちになるか」
神様、とさくらは思った。
姪と、なにより大豆のせいにしたのは、たしかに悪いです。でも、それくらいしないと大事なものを守れないんです。摩擦を起こさないためにほんの少し嘘をつく、それくらい大人なら普通、むしろ礼儀じゃないですか。そんなことすら私には許されないんですか? やっと自分だけの人生が手に入りかけたのに、私がいったい、なにをしたっていうんですか?
インターホンが鳴る。エントランスからオートロックの解錠を求めるメロディアスな音ではなく、玄関先で無愛想にただ到着を告げる音。後者はたいてい前者とセットになっているから、心の準備もなくこちらだけが急に響くと否応なく怯んでしまう。
大豆を飼い始めたばかりのころ、年齢不詳の老嬢がこの音を連打してきたことをさくらは思い出す。さくらが無防備にドアを開けるなり、うるさい、しつけがなっていないとまくし立てられた。その上、このマンションは大型犬禁止だからおまえの犬は規約違反で、管理会社を騙したかどで退去処分ものだと濡れ衣まで着せられた。コーギーは成犬になってもせいぜい十キロ程度の中型犬だし、そのことはちゃんと申請時に伝えてある。後ろ暗いところはなにもない。それなのに、恐怖で舌が縮こまって反論が出てこなかった。
後で入江妃佐子から聞いた話によると、下の階の老嬢は入居したときからひとり暮らしで、かなり長く住んでいるのに家族も友人も訪ねてきたことがないらしい。孤独と暇を持て余し、いまではマンションの自警団のような顔でほかの住人の行動に難癖をつけては、なんとかしろと理事や管理人に言いつけてくるそうだった。そういう人だから心配しなくていいわよ、現にほかの人から苦情なんかないって管理人さんも言ってたし、と慰められて安心する一方、この人を味方にしなければいつかは自分が悪いと思い込まされていたかもしれない、そして、大豆のことまで手放していたかもしれないと、さくらは言い知れぬ恐怖を覚えたのだった。
朝子だけではなく、私もなにも変わっていない。大豆が無駄吠えをする駄犬だというあらぬ疑いをかけられたにもかかわらず、まともにやり合うことさえできなかった。だから、逃げるしかない。急にやってくる怖いものから。大事な家族を、私を、脅かすものから。
二度目のインターホンが響き、大豆が甲高い声で吠える。
今回は何度鳴らせば帰ってくれるのだろう。ソファで膝を抱えたまま、さくらはどうにか深呼吸をしようとして失敗する。めまいがして、頭が上げられない。手が震えて痺れて凍りついてきた。体はまるで動かないのに、心臓だけがうるさくどくどくと早鐘を打ち、その音がしだいに、大縄跳びを続ける何十人ものクラスメートの着地として響いてくる。早く、早く、早く。あなたがなんとかしないと。あなたがしっかりしないと。全部、あなたしだいなんだから。
最初にうっかり出てしまったときは、どう終わらせたんだっけ。
さくらは回想する。無力感と不快感ばかりでなんの学びもない経験だったから、早々に忘れるように努めてきた。ただ、いまこうして似たような状況になったことで、沈めていた記憶を浮上させるのは容易になった。ああそうだ、たしか、管理人さんがエレベーターで上がってきて仲裁に入ってくれたんだ。住人の方から管理人室に電話があって、四階の廊下で「すごい勢いで暴れる人」がいるからなんとかしてほしいと報告を受けたと言っていた。女性がいまにも殴られそうだっていうから変質者でも侵入したのかと思ったよ、と苦笑いして、なぜか後ろ手に持っていた消火器をそっと見せてくれさえした。
そのときは気が動転していたし、そんなものか、と受け流した。ただ、あとあと知った事情によれば、隣の402号室の借り主は車道楽の実業家で、近くにある駐車場目当てで部屋を買っただけだからめったにマンションには来ないらしい(理事の順番も当然のごとくすっぽかした)。北側の404号室は前の住人だった男が出ていったきり、もう二年ほど空き室になっている。残るは403号室だけ。
原田さんだったんだ。あのとき、正面から立ち向かわず、ちょっと話を大きく盛って、私のことを助けてくれたのは。
――石川さん、原田です。お留守ですか?
ドア越しに、いつもの平淡な声が響く。留守ですか、と訊かれて「留守です」と答える人はいない。やっぱりあの人は変、とさくらは思う。それでもどうにか痺れる足をラグに下ろして立ち上がったのは、呼びかけに答えてというより生存本能に近かった。
もし私がこの場で気を失って、万が一にでも死んだら大豆はどうなる? 餌も水もなく、飢えに任せて飼い主の腐肉をあさらせるような真似だけはさせたくない。
その一心だけで、さくらは力を振り絞って玄関の扉を薄く開けた。興奮した大豆が飛び出していかないようドアロックはかけたままにして、古いホラー映画のポスターみたいに隙間から顔を覗かせて、ごく薄く。
「石川さん、すみませんでした」
顔色の悪さをごまかそうとうつむくまでもなく、原田春乃はさくらに深く頭を下げた。
「さっきは嫌な態度をとって申し訳ありません。おとなげない、不公平な真似をしました。個人的な不快感と、自分が八並さんに迷惑をかけたかもしれないという後ろめたさを正当化したくて、罪悪感に訴えるような言い方をわざとしました。単に私自身がその行為が嫌いで、八並さんに対してそうしてほしくなかったし……石川さんにも、そんなことをしてほしくなかったというだけなのに。まるで自分は正義の味方で、だれかのために、反論しているようなふりをしました。卑怯でした。だから、ごめんなさい」
本当に、変な人。そんなの、わざわざ謝るほどじゃない、だれだってやっていることでしょう。個人の感情だと理由が弱いから、みんなが、世間が、常識的に、と周囲を巻き込んで自分の正しさを主張し、相手を孤立させる。そのために、ばれない程度に嘘をついて話を盛る。その程度のことを罪とは言わない。だって、それくらいしないとだれも守ってくれないんだから。
でも、ああ、そう。少なくとも、それを私に伝えて通じるかもしれないとは、期待してくれているのね。おまえなんかいてもいなくてもいい、自分には関係ない、しがらみもなくひとりで生きていますっていう顔をしているくせに。
相手の声がどんどん小さくなる、とさくらは思ったが、実際は、さくらのほうがその場に膝をついただけだった。春乃が謝罪を終えて顔を上げるころには、すでにべったりと三和土にへたり込んでいた。石川さん大丈夫ですか、と身をかがめた春乃の言葉に、大丈夫ですか、も、留守ですか、と同じくらい不思議だとさくらは思う。大丈夫じゃなさそうだと思うから訊くんじゃないの?
右耳のそばで春乃が名前を呼び、左の耳元では大豆が吠え立てる。こら、ドアが開いているのに吠えちゃだめ。また文句を言われる。居場所を得るためには相応の努力をしないと。あなたは嘘をつくことさえできないんだから、せめて愛想をよくしなさい。そして原田さん、そんなにぐらぐら揺らさないで、ああ、気持ち悪い――
「原田さん、揺らしちゃだめです。吐き気が起こるかもしれません」
静かに、しかしきっぱりとそう伝えたのは、さくらではなかった。
「……石川さん、聞こえますか?」
右耳の近くの声が、いつしか別人のものに変わった。久しぶりに答えやすい質問だなと思いつつ返事はできずにいると、声の主はもうワントーン低い声で「失礼します、触りますね」とささやく。それからそっと右の手首に、次に額に触れてくる感触があった。
まだ不眠に悩まされていなかったころの記憶が、さくらの頭の中でぼんやりと呼び起こされる。なんの憂いもなくぐっすり眠った翌朝、散歩を待ちかねる大豆がベッドに飛び乗り、鼻先でちょんちょんとさくらをつついて起こしてきた。まるでスタンプを押すみたいに肌に残る、冷たくてほんのり湿った点の感触。人生はたしかに自分のものだと思えた、つかのまの幸福。
「八並さん、石川さんは死ぬんですか?」
「いや、たぶんこれ、症状からして低血糖です。お客さんにもよくいました。時間がなくて食事を抜いてジムに来て、運動中に具合が悪くなっちゃう人。とりあえず、原田さんは犬をなんとかできますか」
「でも、ドアロックが」
「そのタイプは、女性の手のサイズなら隙間に手を入れて外から開けられます……そんな顔しないでください、救急処置の授業で教わったんです」
いまにも泣き出しそうに震える春乃の声に対し、冷静かつ饒舌に説明しているのは、どうやら八並青らしい。春乃が呼んだのか、あるいは偶然到着したのか。いずれにせよ、私は妹のみならず彼女にまで負い目を作ってしまったらしい、とさくらは思う。彼女が私を嫌っているのはあきらかだし、403号室にはいよいよもう行けない。
「石川さん、これ。水なしで飲めます」
しゃかっと小さな音が鳴って、下を向いたままの視界の隅に華奢な手が入ってきた。犬を脅かさないように注意を引くときと同じ、遠慮がちな手法。八並青の小さな手はいくつかの白いタブレットを乗せて、魔法の絨毯が上昇するようにさくらの口元まで近づいてくる。さくらは激しく頭を振り、口を引き結んでそれを拒否した。
「石川さん、頭を振らないほうがいいです」
「嫌です」
「一粒だけでも」
「嫌です、飲みたくない」
「石川さん」
「薬はもう飲みたくない。この治療っていつやめられるんですか? どうして放っておくと薬の量が増えるの? これを飲みつづけるかぎり、私の言うことなんかますますだれもとりあってくれない。医者なら早く私を普通に戻してよ。もう嫌、もう嫌です」
「石川さん、大丈夫。これは薬じゃなくてラムネです。低血糖にはブドウ糖が効きます。信じられなければ、私も、一緒に食べます」
八並さん、と春乃がなにかを言いよどむ。たっぷり熟考して沈黙するか、率直に考えを口にするか、どちらかの人だと思っていたのに、声だけでわかるほど困惑している。
「石川さん、本当にただの低血糖なんですか? どっちかっていうと……」
「低血糖は体調に直結するので、当然、脳にも影響します。ノルアドレナリンの作用で、パニック発作や過呼吸に似た症状を引き起こすこともあるんです。すぐに糖分を摂取して休めば、体も心も、ちょっと騙された気がするくらいに落ち着きます」
遠慮がちに少し触れてくるだけだった冷たい湿った点が、まるで変身でもしたように、今度はそっと手のひらの形でさくらの背中に当てられた。そのままゆっくりと上下に動く。八並さんの手だ、とさくらは思った。いつもジグソーパズルを無為にもてあそんでいるだけの、なんにもできない人形か子供みたいだと思っていた、小さな手。
「八並さん」
「はい、石川さん、八並です」
「ごめんなさい」
「大丈夫、自分のことだけ考えてください」
「ごめんなさい……」
「怒ってないですから。よくありますよ」
「助けてください」
「はい」
「追い出さないで」
「もちろん。ていうかここ、石川さんのうちなんで、私が追い出すもなにも」
「私、出ていきたくない。ずっとここにいたいんです。ここしか居場所がないの。ごめんなさい、いさせてください」
小さく息を呑んだのが、いったいだれだったのか、さくらにはもうわからなかった。
八並青は背中をさする手は止めず、反対の手でもう一度ラムネをさくらの口元まで運んだ。大豆に餌を食べさせるさくら自身と同じ仕草で、今度は拒否することができなかった。
「はい、食べられましたね。これで、もう、大丈夫……」
いつもはぶっきらぼうな青の声が、さくらの耳元でゆったりと響く。それは鼓動の音、早く入ってこいと急かす大縄跳びの音から、さくらの意識をいつしか遠く引き離した。大丈夫、と、凪いだ波を思わせる一定のリズムで青はささやきつづける。大丈夫です、石川さん、大丈夫。たとえ大丈夫だと思えなくても、すぐにそうなりますから。いまは、自分が元気になることだけを考えましょうね。