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最果てキッチン

 田所圭介たどころけいすけは壁にもたれ、くすんだ部屋をぼんやりと眺めていた。
 あの日を境に、時間は途切れたままだ。
 こんな暮らしが、もう一年も続いている。
 厨房ちゅうぼうに立っていた日々が、遠い幻のようだ。
 過去の罪が、今も全身をぎりぎりと締めつける。

 カーテンがふわりと揺れ、ガラスの小瓶こびんが、暗がりの中でほのかに光った気がした。

 導かれるように、圭介はよろよろと立ち上がり、机に置かれた細身の瓶に触れる。
 固く閉じられた瓶は冷たく、中身はなにも語らない。

 凍えた指を瓶から離し、逃れるように視線を落とすと、机の引き出しが目に入る。
 今まで触れたことのない、彼女の聖域だ。
 ためらいがちに、浅い引き出しに手を掛けるが、びくともしない。
 大きな引き出しを引くと、滑らかに開いた。
 一眼レフカメラと小箱が眠っていた。
 ファインダーを覗く彼女の横顔が脳裏をよぎり、カメラから目を背ける。

 初めて見る小箱を手に取る。
 大きさの割にずしりと重く、全体が濃紺の金属に覆われ、ふたには鍵が掛かっている。
 箱の下には、四枚のモノクロ写真が重ねてあった。
 一枚目を裏返すと、見慣れぬ地名と「さがして」と記された彼女の筆跡。
 懐かしい文字を見て、瞳に新たな光が宿る。

 圭介は、箱と写真を携え、車に乗り込んだ。


一章 合わさるベニエ

 コンコンコン。

 目を開けたとき、圭介は、ここがどこなのかわからなかった。まどろむ視界に、フロントガラス越しの青空と丸いハンドルが浮かぶ。
 徐々に意識が目覚め、車内にいることをようやく思い出す。昨夜は夜通し走り、未明に限界を迎え、眠りに落ちた。

 コンコンコン。

 運転席側の窓を叩く音。顔を向けると、細縁の眼鏡をかけた若い女性が、車外からこちらを見つめていた。
「すみません」
 ガラス越しに、芯の通った女性の声が届く。
「なんでしょうか」
 圭介はドアを開けて立ち上がり、色のない声を出す。
 女性は背の高い圭介に一瞬身をすくめたが、すぐに表情を引き締め、こちらを向く。彼女の視線につられて、自分の服装に目を落とす。しわしわのシャツに、よれよれのジーンズ、汚れたスニーカー。我ながら酷い身なりだ。
「私は県観光課の楠瀬くすのせです」
 彼女は、張りのあるダークスーツに身を包み、黒髪を肩までまっすぐらしている。三十四歳の自分より五つは若く見える。時刻は朝の八時。一日を正しくはじめるのにふさわしい服装だ。
「この道の駅に泊まることは許可されていません」
 道の駅。圭介は辺りを見回す。片側一車線の道に面して、『道の駅 須美江すみえ』の看板が朝の光を浴びて立つ。昨夜は暗くて気づかなかったが、背後には瓦屋根かわらやねの細長い施設が建ち並び、トイレや土産物屋が入っていそうだ。その奥には緑の山々が迫っている。思っていたより、山深いところに来ていたみたいだ。
「休んでいる人がいたので、てっきりいいのかと」
 着いたときは、車内で眠っている人を見かけた。
 楠瀬が眉を寄せ、圭介の赤い車を見下ろす。
「最近は、道の駅をホテル代わりに使う人が増えて、問題になっています。ご存じでしたか」
 楠瀬の表情がさらに険しくなる。
「知りませんでした……」
 楠瀬が、赤いレガシィツーリングワゴンの前方へ回り込み、ナンバープレートを覗く。
「あなたは――」
「田所です」
「田所さん。関東かんとうから宮崎みやざきまでひとりで運転して来たんですか? かなりの時間がかかったはずですけど、目的はなんですか」
 楠瀬が早口で詰め寄る。
 昨日の朝、部屋を出て、レガシィで宮崎まで走ってきた。初対面の相手に、その理由を話す気にはなれない。
「特に……」
 そう言って、圭介はその場を離れようとする。
「ちょっと待って、話はまだ……」
 楠瀬の声を振り切り、圭介は足早に立ち去った。

 関東ではすでに涼しい日も増えていたが、宮崎ではまだ肌にまとわりつくような暑さが残っている。汗ばむシャツを着替えたい気持ちをこらえ、手洗い場の水で顔だけを濡らす。
 着いて早々、いきなり詰問きつもんされた。今もなお、緊張で鼓動こどうが落ち着かない。他人とまともに話したのは、いつ以来だろう。車で寝ただけで、あそこまで訊かれるとは思わなかった。先が思いやられる。
 トイレでしばらく時間を潰し、さっきの県職員がいないのを確かめてから、車へ戻る。
 レガシィのドアを開け、サンバイザーに挟んでおいた一枚の写真を手に取る。太陽の下で改めて眺める。
 一枚目のモノクロ写真。海面から二本の細長い岩が突き出ている。今日はこの場所を捜すつもりだ。形が独特だから、地元では有名な景勝地に違いない。見つけるのに、さほど時間はかからないだろう。今いる山を下れば、日向灘ひゅうがなだに出られるはずだ。
「大丈夫でしたか」
 車に乗り込もうとしたところで、見知らぬ男に声を掛けられた。隣には、同じく初対面の女性。ふたりとも特徴的な髪色をしていて、自分よりかなり若そうだ。
「……なにがですか」
 またしても突然話し掛けられ、圭介は身を固くして、慎重に応じる。
「さっき、車中泊のことで注意されていましたよね。ねえ?」
 ブロンドヘアを風になびかせて、男がにこやかな顔を女性に向ける。
「最近はちょっと長く停めてると、近所の人に通報されちゃうみたい」
 ピンク色に染めた長い髪を揺らし、女性が辺りを見回す。
 このふたりは一体何者なんだろう。金色とピンクの髪をした派手な若い男女。人を外見で判断すべきではないと思うが、初めて接するタイプの人には、気後れしてしまう。今の自分には、ふたりの色彩は鮮やかすぎる。
「あなたたちは……」
「あ、申し遅れました。僕がケンで、彼女はメリーです」
 男が名刺を差し出してくる。
「ユーチューバー……?」
 名刺には、ふたりの名前と職業、チャンネルのアドレスとQRコードが印刷されていた。料理動画を参考に観たことはあっても、ユーチューバーに会うのは初めてだ。
「僕たちは車で日本一周しながら、美しい景色を撮った動画を配信しています」
 ケンと名乗った男が楽しそうに語る。
「はあ……」
 どうしてユーチューバーが自分に声を掛けてきたのかわからず、圭介は曖昧あいまいに頷く。
「モノクロの写真、クールですね。すごく変わった形の岩だ。見てみたいな。どこにあるんですか」
 ケンが、圭介の手元の写真を覗き込む。
「……知りません」
「この場所を捜してるの?」
 男たちより背が低いメリーが写真を見上げて尋ねる。
 圭介は、写真を裏返す。そこには「宮崎」という地名と、たったひと言「さがして」と書かれている。
 ずっと誰とも関わらずにきたのに、距離をぐいぐいと詰められ、圭介は息苦しくなり、この場から逃げ出したくなる。
「失礼します」
 圭介は写真を隠して、慌てて車に乗り込む。白いお守りを掛けたシフトレバーをパーキングからドライブに入れるとカチャリと音がした。
 レガシィのアクセルを踏み込み、逃げるように道の駅をあとにする。

 日が高くなるにつれて、気温がじわじわと上昇してきた。窓を開けると、新鮮な空気が車内に舞い込む。
 まばらに走る車に交じりながら、海を目指して坂を下る。
 最初に気づいたのは匂いだった。いくつかのカーブを過ぎると、湿った風が吹き込み、潮の香りが鼻をくすぐる。遅れて、視界がひらけ、青い海が姿を現す。
 燦々さんさんと降り注ぐ陽光を浴びて、海がきらきらと輝いている。
 海岸沿いの道を走り、小さな港を通り過ぎる。漁に出ているのか、港内には、数隻すうせきの漁船だけが浮かんでいた。
 岩場を見つけると、空き地に駐車して、写真の被写体を捜す。山から転げ落ちてきたような岩が、海面からいくつも顔を出している。だが、目当ての細長い奇岩は、どこにも見当たらない。どれもごつごつと角張っていて、形がまるで違う。
 少し走っては停まり、捜してはまた走ることを繰り返しているうちに日が暮れてきた。
 久々に身体を動かして、お腹が空いた。自炊という言葉が頭に浮かぶが、首を振って追い払う。国道沿いのチェーン店を適当に選び、適当に空腹を満たす。
 街外れに、大きな温泉施設があった。地元の町が運営していて、たったワンコインで入れた。
「にいさん、どこから来たの?」
 遠くの山々が望める露天風呂で、隣に浸かっていたごま塩頭の年配の男性が声を掛けてきた。
「関東です」
「へえ、遠くからご苦労だね。この辺りは活火山が多いから、いい温泉がいくつもある。うまいものも多いし、景色もいい。楽しんで帰ってよ」
 おじいさんが手ぬぐいで頭を拭きながら、人懐っこい笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
 そう言い残して、圭介は風呂から先に上がる。また話し掛けられた。引きこもっていた昨日までとはまるで違う時間が続く。見知らぬ人と親しく話すことにまだ慣れない。自分は楽しんではいけないといういましめに似た思いが頭をもたげる。
 温泉を出ると、外はすっかり真っ暗だった。岩場を回るのはもう無理だ。変わった形の岩ならすぐに見つかると思ったが、当てが外れた。
 街灯ひとつない道を走ると、昨晩、夜通し運転した反動で、強烈な眠気が襲ってきた。
 海沿いの道に、広い路肩が見えた。今夜はここに泊まることを決め、シートを倒して、目を閉じる。
 車中泊だと、腹が減ったらすぐに食べられ、眠くなったらその場で眠れる。
 思いがけず手にしたひとときの自由。助手席にある、童話に出てくる宝物みたいな小箱に触れながら、波の音に包まれて、圭介は眠りに落ちた。

 翌朝、ハンドルを握りながら、圭介は大あくびをした。
 暑さにうなされ、昨夜は何度も目が覚めた。窓を開けるとが飛び込んできたので、慌てて手で払い、すぐに窓を閉めた。エンジンを掛けっぱなしにするのも気が引けて、蒸し暑い車内で我慢して眠った。狭いシートで寝たせいで、筋肉は強張こわばり、腰には鈍い痛みが残っている。路肩をかすめて走る車の音にも悩まされた。
 ホテルに泊まれば楽なのだろうが、出費はなるべく抑えたい。この旅が長引くなら、車内を快適にしなければと思いつつ、昨日とは違う道へハンドルを切る。
 国道を外れて、地図に載っていない細い道を進むと、海岸沿いに奇妙な地形が現れた。平たい岩場が、海へ向かって果てしなく広がっている。岩の表面には凹凸おうとつが刻まれ、それが幾重にも連なっていた。まるで、打ち寄せた波がそのまま固まってしまったみたいだ。
 整地された駐車スペースにレガシィを滑り込ませると、すでに何台かの車が停まっていた。
 車を降り、うねる岩の上を綱渡りでもするようにバランスを取りながら慎重に進む。岩の表面はすべすべしていて、ところどころ海水で光っている。近づくと、足元の小魚やカニが、潮溜まりのくぼみに素早く身を潜めた。海面で跳ねる日差しが目に眩しい。
 波打つ岩の間で数人が腰を曲げて、赤黒い海藻を海から引き上げ、大きなバケツに次々と放り込んでいる。地元の人なら、この辺りの名所にも詳しいだろう。初対面の人に話し掛けるのは尻込みしてしまうが、写真の手がかりを得るには、ためらってはいられない。
「お忙しいところ、すみません」
 長靴をき、麦わら帽子を被った年配の男に歩み寄り、声を掛けた。
「なんでしょう」
 男が腰を伸ばし、細めた目を圭介に向ける。
「地元の方でしょうか」
「そうですが……」
「この場所をご存じありませんか」
 圭介はポケットから岩の写真を取り出し、男に見せる。
「ん?」
 男が写真を手に取り、凝視ぎょうしする。
「見たことないなあ。知っているか」
 隣で作業していた女性に写真を向ける。奥さんだろうか。
 女性が首を伸ばして写真を覗く。
「覚えがないねえ。ここは鬼の洗濯板せんたくいたばかりだから、こんな細長い岩はないよ」
「……洗濯板、ですか」
 洗濯板は、博物館でしか見たことがない。
「今の若い人は洗濯板を知らないか。ほら、ここは凸凹でこぼこした岩がずっと続いているだろ。昔は、こんな形の板で着物を洗ったんだよ」
 女性が両手の拳を擦りつける仕草をする。
「鬼が洗濯するんですか」
「鬼っていうのは、でっかいという意味じゃないかな。とにかく、ここらじゃそう呼んでいる」
 男が両手を広げて、説明してくれた。これほど巨大な洗濯板なら、鬼どころか巨人の服でも洗えそうだ。
 ふたりに礼を言って、沖へ向かって歩き出す。
 連なる岩場を進むにつれ、景色が少しずつひらけていく。遠くまで澄みわたる空と紺碧こんぺきの海が、薄いもやの向こうでひとつに溶け合っている。外洋から吹き込む風が頰を撫で、磯の香りを鼻にもたらす。奇妙な形をした岩々に寄せては返す波が、さまざまな音を荒々しくうち鳴らしている。日差しは容赦なく降り注ぎ、たちまち汗が背中を伝う。
 引き返そうか迷っていると、岩の先に人影があった。しゃがんでいて顔は窺えない。
 近づくと、おそろいのキャップを被った若い男女の姿が見えた。
「またお会いしましたね」
 圭介に気づいたケンが立ち上がり、笑顔で手を振る。
「ここで海藻でも採っているんですか」
 思わぬ再会に戸惑いながら、圭介が尋ねる。
「写真の岩を見つけてたの」
 メリーがキャップから垂れたピンクの横髪を耳に掛ける。昨日の朝、会ったときより、日焼けしている。
 見渡したところ、写真のような岩はなさそうだが。
「あんなに珍しい形の岩なら、観光名所になってるはずなのに、ガイドブックにもネットにも載っていませんでした。だから、小さい岩を至近距離で撮ったと推理して、似た形の岩を捜していたんですよ」
 ケンが楽しげに話す。Tシャツは汗でぐっしょり濡れ、顔はメリーよりもさらに黒く焼けている。
「こんな暑い中、捜してくれていたんですか」
「捜し物って、ゲームみたいで面白いですよね、夢中になっちゃいました」
 ケンが笑いながら、額の汗を拭う。その腕には赤いすり傷がいくつも残っていた。
「その腕、どうしたんですか」
「ああ、これ? 昨日、岩場を歩いていたら、転んじゃって。濡れてると肌ってすぐに切れちゃ
うんですよね」
 ケンが肘を曲げて、傷の具合を確かめる。
「どうして、見ず知らずの僕のためにそこまで……」
「日本一周をしている間、僕らはいろんな人に助けてもらいました。地元の名物をご馳走ちそうになったり、ぬかるみにはまった車を引っ張ってもらったり。僕らだけでは、とてもここまで来られませんでした。だから、今度は僕らが誰かを助けたいと思っていたんです」
 自然なことのようにケンが語る。
「写真があんまり素敵だったから、あたしもその景色を見たくなっちゃった」
 メリーがにこやかに続ける。
 ふたりは汗だくになりながら、まるで自分のことのように岩を捜してくれている。
「もう一度だけ写真を見せてもらえませんか。岩の形をじっくり確かめたくて」
 圭介はケンに写真を見せる。
「岩の根元に寄せる波のスケールからすると、ふたつの岩は意外と大きいと思います。スマホじゃなくて、一眼レフかミラーレスで撮影していますね。構図もピントもバッチリだ。モノクロで残すことを計算して、光を入れている。いつも動画の編集をしてるから、そういうのが、わかるんですよ。すごくレベルの高い一枚です」
 ケンが感心した声を出す。
 写真を褒められ、圭介はつい表情が緩みそうになる。
「この場所を見つけることがとても大事なんですね」
「ええ」
 圭介は自らに言い聞かせるように答えた。

 三人で鬼の洗濯板周辺を探索したものの、目当ての突き出た岩は見つからず、陸地へ引き返すことにした。ただ歩くのに飽きたのか、ケンとメリーが、岩から岩へと軽やかに跳び移っていく。ケンが踏み外し、スニーカーの踵を浅瀬に濡らす。跳ね上がった水飛沫しぶきを浴びたメリーが甲高い声を上げる。
 はしゃぐ若いふたりの眩い姿に、圭介は目を細める。
「赤いレガシィ! 何度見てもカッコよすぎですね!」
 陸地に戻ると、ケンが興味津々に車を見て回る。
「年代物の中古車です」
「発売されたのって十年以上前ですよね。まだ塗装がピカピカじゃないですか。ちょっと中を見せてもらっていいですか」
「どうぞ」
 圭介はドアを開ける。
「この時代のインパネって、ディスプレイがないから、スッキリしてますよねえ」
 ケンが身を乗り出し、車内のあちこちを確認する。
「窓を閉め切ったままじゃ、寝苦しくないですか」
「朝起きたら、汗びっしょりでした。窓を開けると虫が入るし、エアコンをつけっぱなしにするのもなんだか良くない気がして」
 ケンが小走りで自分たちの車へ戻り、二枚の黒い網を抱えてくる。
「車用の網戸です。窓に貼るだけで、風は通して虫は入りません。暑さと寒さは車中泊の大敵ですから」
 ケンが窓枠にマグネット付きの網戸をペタペタと貼りつけていく。運転席と助手席の両方に取り付けると、涼しげな風が車内をすうっと通り抜ける。これなら夜も快適に眠れそうだ。
「よろしければ、差し上げます」
「えっ? でも、さすがに悪いですよ」
 ケンの気前の良さに、圭介は戸惑う。
「メーカーからの提供品です。動画で紹介する代わりに、商品と報酬をもらっています。僕たちのチャンネルは、登録者が五十万人いて、自分で言うのもなんですが、放浪系ユーチューバーの中では、ちょっとした有名人なんですよ」
 ケンがレガシィの後ろに回り込み、リヤゲートを跳ね上げる。荷室はナップザックがひとつ転がっているだけで、がらんとしていた。
「田所さん、しばらく車中泊を続ける予定ですか」
 ケンが好奇心に満ちた顔で振り返る。
「ええ。写真の場所がわかるまでは」
「だったら、荷室を寝室に改造したほうがいいですよ。運転席じゃ、しっかり休めないでしょ」
「布団を敷けばいいんでしょうか」
 圭介がそう尋ねると、こっち来て、とメリーが手招きする。
 ケンとメリーの車は小型のミニバンだった。
 メリーが車体のスイッチに触れると、スライドドアがゆっくりと開いた。
 現れた車内を見て、圭介は目を見張った。
 外観からは想像もできないほど、広々としていた。後部座席を倒して荷室までつなげたスペースには、木製パネルが敷き詰められ、床面はフラットに整えられている。その上にはベッドマットが敷かれ、大人ふたりでも足を伸ばして楽に寝られそうだ。
 天井一面にネットが張られ、畳んだ洋服がぎっしりと詰め込まれていた。車内に無駄なスペースはどこにもなく、長年の暮らしで培った知恵と工夫が隅々まで行き届いている。
「ここ、見て」
 メリーが、箱から飛び出た蛇口をひねると、小さなシンクに水が流れ出た。
「水はどこから引いているんですか」
 圭介が尋ねると、ケンが箱を開けて、水の溜まったポリタンクを見せてくれる。
「地方には湧き水がたくさんあるから、汲むのに苦労しません。使った水は、下の排水タンクに落ちる仕組みです」
「電気コンロと冷蔵庫もあるよ」
 メリーが得意げに見せる。簡単な料理ならここで充分できそうだ。
「お茶にしましょうか」
 ケンがベッドマットを折り畳み、パネルを外しはじめた。なにをするのかと見ていたら、パネルを外した箇所から車のフロアが現れ、残されたパネルがテーブルと椅子になった。ちょっとしたダイニングセットが車内に生まれた。
 パネルの椅子に座り、メリーがお茶を用意する。大分の名水を電気コンロで沸かし、京都宇治きょうとうじ
の茶葉に注ぐ。
「雨の日は、こうしてまったりしています。動画の編集も、だいたいここで」
 ケンとメリーのように、ミニバンで旅しながら暮らすスタイルを「バンライフ」と呼ぶそうだ。四角い窓の向こうには、さっき歩いた鬼の洗濯板と水平線が望める。吹き抜ける風が火照ほてった肌をやさしく冷やす。
「本当の家みたいですね」
「ふたりで住むにはちょっと狭いけどね。でも、うちらニコイチだから」
「ニコイチ?」
「ふたつでひとつって意味です。僕たち、別々の場所に生まれて、別々に育ちましたが、考え方がそっくりで、ずっと一緒にいても全然苦になりません。初めて会ったときは生き別れの双子かと思いました」
 それは大げさ、とメリーが苦笑する。
「だから、ずっと一緒にいても喧嘩しません」
「時間にゆとりがあるのも大きいかもね」
「そうそう、予定に縛られないから、疲れたら景色のいいとこでのんびりして、気が向いたら次の目的地へ向かって走る。そんなふうに自由気ままに旅しています。どうですか? こういう車の暮らしは」
「いいと思います」
 圭介は素直に答える。バンライフも魅力的だが、ニコイチで仲良く暮らすふたりを羨ましく思ってしまう。
「田所さんの車も、ちょっと手を加えてみませんか。しばらく車で過ごすなら、少しでも快適にしたほうが絶対いいですよ」
 ケンが、これから夏休みを迎える子供みたいな顔で、こちらを見る。
 昨晩、狭いシートで寝たら身体中が痛くなったが、このミニバンのようなベッドがあれば、ぐっすり眠れそうだ。小さくてもキッチンがあれば、いつでも自炊ができる。料理はしたくないが、外食ばかりでは、貯金がすぐに底をつく。とはいえ、車の改造にもそれなりの費用がかかるはずだ。
「正直なところ、そんな大金を持ち合わせていません」
 圭介は肩をすくめる。
「僕が全額払います」
「そんな……、そんなうまい話、あるわけないですよね」
 あまりに都合が良すぎて、圭介はつい彼らを疑ってしまう。
「じゃあ、ひとつ、取引しませんか」
 ケンが人差し指を立て、いたずらっぽく口角を上げる。
「取引?」
「費用をこちらがもつ代わりに、車を改造する様子を動画で撮らせてください。カスタマイズ系の動画が一番回るんですが、自分たちの車はもうやり尽くしてしまい、最近ネタ切れなんですよ」
「お願いします!」
 ケンとメリーが声を揃えて、同時にぺこりと頭を下げる。

 ふたりの熱心な誘いに根負けし、圭介は愛車のDIYと動画撮影を承諾した。話ができすぎている気もするが、顔出しして活動している有名ユーチューバーのふたりが、人を騙すとは考えにくい。身体があちこち痛かった今朝のことを思い返すと、車内でくつろげるようになるのは、ありがたい。
 ホームセンターで材料を調達すると、店の作業場に移り、ケンが車の改造をはじめる。
 レガシィの後部座席を倒すと、荷室まで続く細長い空間が現れた。まずすのこを敷き詰める。湿気対策になるそうだ。簀の上にはシングルサイズのエアマットを設置した。ポンプで空気を注入するとエアマットはすぐに膨らんだ。
 続いてケンは、ポリタンク内蔵の水回り作りに取り掛かる。大工仕事に不慣れな圭介も、見よう見まねでケンを手伝う。
 作業の間、メリーはカメラをずっとこちらに向けている。彼女は撮影専門らしく、画角に決して入らない。
 ポータブル電源からケーブルを引き、電気コンロに繫げる。助手席は手荷物置き場に、荷室の半分は水回りと収納スペースに割り当てた。
「立っても調理ができるようにしておきました」
 レガシィの天井は低く、車内だと座って作業するしかない。だが、壁面の留め具を外せば、電気コンロと水回りを荷室の端まで動かし、車外に立って料理ができるようにしてある。
 夕方近くに、作業が完了した。ケンとメリーの車に比べれば簡素だが、ひとりで泊まるには申し分ない設備だ。こんなにも熱心に手を貸してくれたふたりを、最初ぞんざいに扱ってしまった自分が恥ずかしい。
 近くの海浜公園へ移動し、ミニバンから持ってきた折りたたみチェアを海が望める砂浜に並べて、圭介とケンは腰を下ろした。メリーはミニバンの車内でなにか作業をしている。手伝わなくていいのだろうか。
「今日はお疲れ様でした」
 ケンがペットボトルのコーラを掲げる。圭介も手にしたミネラルウォーターで応じる。
「あれは、プロのフォトグラファーが撮った写真ですか」
 コーラをひと口飲み、ケンがこちらを窺うような声で尋ねる。ずっと訊きたかった質問なのだろう。
「プロではありませんが、カメラを趣味にしていました」
「撮った人は知っているのに、撮った場所はわからない」
 ケンが数学の難問に挑むような顔をする。
 世話になった彼にすべてを話してしまおうかとも思ったが、どう話せばいいのか、自分でもまだ整理がついていない。
「田所さんに謝らないといけません」
 ケンが急に真面目な顔つきになる。
「どうしてですか。こんなに親切にしてくれたのに……」
「実は、田所さんの車を改造したいと最初から目をつけていたんですよ」
「最初って……、声を掛けてきた道の駅からですか」
 ケンが首をすくめ、気まずそうに笑う。
「バズる動画を撮りたくて……、スーツの女性との会話を盗み聞きして、田所さんが車中泊をしているって知りました」
「でも、それだけじゃないですよね。写真の岩を熱心に捜してくれたじゃないですか」
「うん、それも、撮れ高がありそうだったからで……、あ、でも、田所さんのお手伝いがしたかったのは本音です」
 まだ若いからか、ケンの言葉はまっすぐで正直だ。危なっかしくもあり、羨ましくもある。
「取引なんだから、思惑があるのは当然です。僕にとってはありがたい取引でした。おかげさまで、今夜はぐっすり眠れそうです」
 ふたりには感謝している。彼らと出会い、この一年、閉ざしていた心に、ほんの少しだけ風が通る隙間ができた気がする。
「ここまでしてもらっては、さすがに申し訳ないです。せめて材料費だけでも払わせてください」
「動画を配信すれば、材料費くらい広告収入ですぐに取り返せるから、全然平気です」
 ケンがやんわりと圭介の申し出を断る。
 それでも、彼らの厚意に甘えるだけなのは、心苦しい。では、自分になにができるのか。お金はないし、差し出せるものはなにもない。ひとつだけできることが思い当たるが、それだけは気が進まない。過去の苦い記憶が、心と身体を縛る。
「わぁっ!」
 ミニバンから、メリーの叫び声が聞こえた。
 圭介とケンはチェアから立ち上がり、車へ駆け寄る。
 スライドドアを開けた瞬間、げた臭いが鼻をついた。
「どうしたの?」
「パンケーキを焼いてたんだけど……」
 電気コンロの上で、鉄のフライパンが煙を上げている。中のパンケーキは縁だけ黄色く、生地の中央は真っ黒に焦げていた。
「だから言ったろ。滅多に料理なんてしないんだから、やめとけって」
 ケンの表情が、これまでとは違う冷たいものに変わる。
「だって……、田所さんに手作りのものを食べてもらいたくて……。ひとりで旅してたら、きっとコンビニとか外食ばかりだろうから……」
 いつもの明るさが消え、メリーの顔がどんよりと曇る。テーブルには、生クリームの入ったボウルが残されている。メリーは、パンケーキに添える生クリームを泡立てていて、焼きすぎに気づかなかったようだ。パンケーキは弱火で焼かないとすぐに焦げてしまう。
 メリーが肩を落としてうなだれる。焦げた臭いと気まずい沈黙が車内に重く立ち込める。
「もういいよ。どっか食べに行こ」
 ケンの投げやりな言葉に、メリーがますます沈んだ顔をする。
 圭介は、かつての光景を思い出す。普段は圭介が料理を担当していたが、その日は圭介の誕生日だったので、妻の羽澄はすみがケーキを焼くと言ってキッチンに立った。けれど、スポンジはうまく膨らまず、そのときの羽澄が今のメリーのような表情をしていた。
「ちょっと待ってください。メリーさん、よければ一緒に、もう一度作りませんか」
 圭介はメリーに優しく声を掛ける。
「田所さん、料理できるの?」
「少しだけなら」
「でも、パンケーキの粉は全部使っちゃったし、他にまともな食材がないの……」
 メリーが恥ずかしそうに目を伏せ、困った顔をする。
 圭介は、冷蔵庫と棚を調べて、卵と牛乳、バター、きび砂糖、厚切りの食パンを揃える。
 これでなんとかできそうだが、いざ食材を目にすると、料理をすることへの罪悪感が押し寄せ、鼓動が速まり、手が震える。一年前の出来事を思い出し、壁に手をつき、荒い息を吐く。
「田所さん、どうしました? 顔色が悪いですよ」
 ケンが心配そうに声を掛ける。
「……大丈夫です」
 震える右手を必死に押さえつけ、泡立て器に手を伸ばすが、指先が思うように動かない。
「メリーさん……、卵と牛乳、きび砂糖をボウルに入れて、手早く混ぜてくれませんか」
 心臓が激しく波打つのを感じながら、圭介は声を震わせてメリーに頼む。
「は、はいっ」
 パネルの椅子に座った姿勢で、メリーがボウルを手で押さえ、泡立て器を小刻みに動かす。
「……小さく円を描くようにするとうまくいきます」
「これはなにを作ってるの?」
「……アパレイユです。混ぜ合わせた生地のことです」
「こんな感じで大丈夫?」
 メリーがボウルの中身を圭介に見せる。
「完璧です。本当は一晩寝かせるのですが、今日は横着します。食パンにフォークで細かく穴を空けてください」
「あれ、このパン、賞味期限が切れてる。新しいの買ってこようか」
「むしろ、古い方がいいです」
 メリーが不思議そうに首を傾げながらも、フォークで食パン全体をぐさぐさと刺す。
 圭介の指示どおり、メリーが四等分したパンをコンロで軽くあぶってから、アパレイユに沈める。穴を空けて温めておくことで、短時間でも卵液がパンにしっかりと染み込む。
「バターを溶かして、ごく弱火で焼きましょう。たいていの料理のコツは強火にせずじっくり火を入れることです」
 メリーが、漬け込んだパンをフライパンに並べ、じっと見つめながら、両面を低温で丁寧に焼いていく。
 焼き色がついたパンに、さっき泡立てた生クリームをたっぷりと添える。
「……完成です。頑張りましたね」
「すごい! お店で出てくるようなフレンチトーストができた!」
 メリーが満面の笑みで、フレンチトーストが載った皿を掲げた。

 開け放ったリヤゲートの下、メリーが荷室の端に足を垂らして腰掛けている。向かいには、圭介とケンが砂浜のチェアを移して座り、フレンチトーストと紅茶のカップを載せたテーブルを囲む。遠くから波の音が風に乗って届く。
 厚切り食パンで作ったフレンチトーストは、こんがりとした焼き目に囲まれ、卵液をたっぷり吸い込んだ中心が太陽のように黄色く燦々と輝く。隣には、角をちょこんと立てた白い生クリームが寄り添い、甘い香りを漂わせている。
 メリーがパンケーキ用に用意した琥珀こはく色のメイプルシロップをたっぷり垂らすと、焼けた表面をとろりと流れ、金色の滝みたいにしたたり落ちる。
 ケンがナイフとフォークで切り分ける。サクッという小気味いい音が響き、断面から甘美な湯気が上がる。
「めちゃうまっ! フレンチトーストのぶにゅぶにゅした食感が苦手だったけど、これは外サク、中ふわで、完璧です!」
 ケンが驚きと嬉しさが入り混じった表情をする。さっきまでの不機嫌はおさまったみたいだ。
 メリーが生クリームを添えた一切れを口に運び、深く味わうように嚙み締める。シロップと生クリームが合わさった濃密な甘さに、はっとしたように大きく目を開く。
「すっごく甘いのに、重たくなくて、舌で溶けちゃう。田所さん、教えるのうまっ。自分が作っ
たとは信じられない。あたし、フレンチトースト好きでよく食べるけど、こんなにおいしいの
は初めて。なにが違うの?」
 メリーが感激したように声を弾ませる。
「古く乾いたパンを使ったからかもしれません」
「新しい方がよくない?」
「フランスでは、フレンチトーストを “失われたパン” と呼びます」
「おいしすぎて、すぐにパンがなくなっちゃうから?」
「味を失った古いパンが、卵と牛乳でよみがえるからだといわれています。乾いているほど味がよく染みるので、フレンチトーストには向いているんです」
「へえ、知らなかった。田所さん、料理めちゃ詳しいですね!」
「作ったのはメリーさんです。僕はただ口出ししただけです」
 ずっと料理を避けてきたのに、悲しそうなメリーの顔を見たら、どうしても放っておけなかった。
 圭介も一切れ口に入れる。
 古かったパンがアパレイユをたっぷりと吸い込み、ふっくらと息を吹き返している。嚙むと、焼けたパンが心地よい歯応えを返す。あごに力を加えると、濃厚な卵液が口にどっと溢れ出る。焦げ目の香ばしさが鼻を撫で、バターと牛乳が合わさったまろやかな甘みが舌を包む。海から運ばれた潮の香りが、甘さをやさしく引き立ててくれる。
 古びたパンから甦ったフレンチトーストを味わうと、胸の奥に沈んでいたものが少しだけ軽くなった気がした。メリーを助けたい思いが料理へのためらいを退けた。
 フレンチトーストは、羽澄が好きだったひと皿だ。羽澄がケーキ作りに失敗した誕生日にも、ふたりで作ったフレンチトーストに蠟燭ろうそくを立てて祝った。焦げ目のついた甘くほろ苦い記憶が浮かび上がる。
「明日から列車の撮影に行くから、岩捜しはちょっとお休みするね。単線を走るほのぼのとした風景が撮れるんだって」
「もちろんです。動画の撮影が本職なんですから、無理しないでください」
「写真の場所は、僕らのSNSでも情報を募ってるので、期待してください!」
 とケンが力強く言う。
「ありがとうございます」
 圭介は連絡先を交換し、レガシィでその場をあとにした。
 開け放たれた窓から潮風が吹き、遠ざかる波の音が耳に残った。



続きは『最果てキッチン』で、ぜひお楽しみください!

料理人としてフレンチレストランを開業する間近で、妻を失った青年・田所圭介。
失意に沈むなか彼が見つけたのは、妻の残した鍵のかかった小箱と、意味深な写真だった。
鍵の在り処を求めて、写真が撮影された地・九州を訪れた圭介は、
道の駅で車中泊をしながら各地を巡り、さまざな人たちと触れ合うことに。

旅動画を撮るため全国を巡るユーチューバー、
飼い犬と共に車上で生活する老夫婦、
移住に失敗し、キャンピングカーを住まいにした家族……。

それぞれの事情を抱えながらもたくましく生きる人々の助けになりたいと
料理を振る舞ううちに、圭介は自分自身の心とも向き合うようになる。
そして、旅を続けるうちに妻の目的も見えてきて――。

開放的な宮崎の空気と、新鮮な地の食材を使ったあたたかな料理。
旅とおいしいものに触れ、ひとりの人間が再生していく過程を描いた
落涙必至のヒューマンドラマ!

■著者プロフィール
高山環(たかやま・かん)
『夏のピルグリム』で第12回ポプラ社小説新人賞奨励賞を受賞。『ふたりの余命  余命一年の君と余命二年の僕』(宝島社文庫)でデビュー。

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