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第5回

#5 少年昭和時代

 愛しき昭和。
 ひょっとしたら二百年後、三百年後の教科書には、
「ウェアラブル端末がまだ存在せず、個人間ネットワークが脆弱ぜいじゃくだったゆえ、国家の存在が最大限まで膨張し、世界史上最大規模の戦争が起きた時代」
 という、何だか中世のむかしを振り返るような捉え方で、あっさりまとめられてしまうかもしれない昭和。
 私が中学一年生のとき、昭和は終了した。
 歴史的な最後の日を、今でもよく覚えている。
 なぜなら、生まれてはじめてカツアゲに遭ったからだ。
 昭和天皇が崩御したことを伝える新聞を難波なんばまで買いに行くついでに(なぜか記念に各紙買い揃えたいと思い立った)、家族からそれならばマクドナルドに寄って、みんなの昼ごはんを買ってきてほしい、と頼まれた。
「了解!」
 大阪はミナミの難波駅の売店で新聞を買い求め、千日前せんにちまえのマクドナルドへ向かい、託されたメニューを購入、店の前に停めた自転車のかごに積んだ。
 わが自転車は当時、キッズの誰もが乗っていた、またがる部分のバー(トップチューブと呼ぶらしい)に六段の変速ギアが備わった「ザ・昭和」な一台。かごは後輪サイドに折り畳み式で設置されている。そこにマクドナルドの袋をすっぽり収め、ちんたらと家を目指し漕いでいたら、ちょうど黒門市場くろもんいちばのあたりで、
「おい、コラァ」
 と呼び止められた。
 何だろう、と顔を向けたら、
「殺すぞ、お前」「しばくぞ、お前」「やったるぞ、お前」
 と念仏のように唱える、中学二年か中学三年くらいの男がスッと隣に自転車を寄せてきた。その後ろには舎弟らしき二人がやはり自転車に乗ってこちらを睨みつけている。
「おお、カツアゲやん」
 天皇崩御により、学校が急遽休みになったというのに、それに乗じてカツアゲに励むという発想に新鮮な驚きを感じていたら、
「お前、〇〇小か、コラァ」
 と巻き舌調子で訊ねられた。当時、『ビー・バップ・ハイスクール』が流行り病のように男子たちの間に浸透し、巻き舌「コラァ」の習得は必須であった。ちなみに私は巻き舌ができず、「コルルルラァ」とラ行を連打することでごまかしていたが、そのごまかしを他人から指摘されたことはなかった。みんな、どうでもよかったのだろう。
 繰り返すが、私は中一だった。中学校に入って身長も伸び、小学生とは明らかに異なる外見を得つつあるのに、小学生扱いされたことに少々プライドを傷つけられつつも、勘違いしてもらうに越したことはない。そのまま黙っていると、
「ついてこいや、コラァ」
 とリーダー格が先んじて自転車を進めた。
 これからどうなるのか、と思いつつ、私は言われたとおりついていった。私の自転車を挟むように、舎弟の二台が背後に続く。
「こっちじゃ、コラァ」
 リーダー格が黒門市場へ入っていく。いったい市場に連れこんで何をするのか? そもそも、これは本当にカツアゲなのか? と疑問を感じたが、後ろからしきりに「殺すぞ」の連呼が聞こえてくるので、そういうことなのだろう。
 そのとき、私は千日前通沿いにいた。
 そこは家から難波駅に向かう通学路の途中であり、マクドナルドからの帰路は、そのまま学校帰りのルートと一致していた。ゆえに、千日前通を横断する際の信号のタイミングも完全に把握していて、あの左手前方に見える、中央分離帯部分の信号が青のとき、全速力で千日前通を横断したら、その後、かなり先まで青信号が続き、一気に反対車線を自転車で駆け抜けられることも知っていた。
 私はおもむろに、トップチューブの変速ギアを1速のポジションにセットした。
 カツアゲ遂行中の三人に対し、ほんま間抜けやなあ、と思ったのは、私の横に誰もついていなかったことである。その状態のまま、先導のリーダーが右に曲がって、さっさと黒門市場へ入ってしまったら、当然、私の目の前はがら空きになる。
 私はペダルを踏みこみ、誰もいない前方に向け、加速をスタートさせた。
 すでに中央分離帯部分の青信号を確認していたので、そのまま千日前通を横断。
 このときの私ほど、「ザ・昭和」な自転車の変速ギアを、「1→4→6」の順で美しく切り替えた男はいなかっただろう。
 中央分離帯部分の下り坂も利用して、一気に6速までギアを上げ、完全にスピードに乗った私は、当時のツール・ド・フランス王者ベルナール・イノーの如く、尻を持ち上げ、背中を丸め、風となって国立文楽劇場前の道路を疾走した。途中、後ろを確認したが、悪ガキどもの姿は影も形も見当たらない。
 家に帰り、親に何があったか話すこともなく、マクドナルドのハンバーガーを食べながら、買ってきた新聞を確認した。一般紙は各紙一面、黒枠に白抜き文字で見出しが並んでいた。文字組のデザインで、こんなふうに重々しく弔意を表現できるのだなと感心した。いっしょに購入したスポーツ新聞も、崩御を伝える記事が一面を占めていたが、紙をめくると、通常運転でおっさん的エロ記事が載っていた。これはこれで芯が通っているな、と妙に感心した。
 カツアゲ(正確には未遂)に遭ってから、12時間後、深夜零時に新しい元号「平成」が始まった。
 ここに、六十四年続いた昭和は静かに幕を閉じたのである。
 
   *
 
 振り返るに、私にとっての昭和は、すべてがまるっと少年時代であった。
 今となっては街角から完全に消え失せてしまった風景たち。じわりじわりとわが記憶からこぼれ落ちていくこれらの思い出を、備忘録代わりに書き連ねていきたい。
 まずはオート三輪。
 私が「昭和の思い出」というフレーズを聞いたとき、なぜかいつも脳裏に思い浮かべてしまうのがオート三輪だ。松屋町筋まつやまちすじを見下ろす歩道橋を渡っていたとき、四車線の松屋町筋の端をオート三輪が、四輪自動車の波にまぎれ、一台だけ頼りなく走っていた。
 私は8歳くらいだったろう。
「わ、懐かしい。ひさびさ見たな。まだ走ってたんや」
 と驚いたのを覚えている。つまり、1984年の時点で、まだオート三輪は大阪中心部の道路を走っていたのだ。
 そのころ、谷町たにまち九丁目にあった我が家のまわりはヤクザが多く住んでいた。ちょうど山口組と一和会の抗争が激しさを増していた頃である。近所の銭湯では、背中一面に彫り物を施したおっさんの後ろ姿を、湯船に浸かり、湯気越しにまじまじと見つめた。
 スーパーにおばあちゃんと買物に行くと、レジ打ちのお兄ちゃんの指が両手合わせて三本くらい失われていて、「何でこの人、指ないの?」と無邪気にレジの前で訊ねた。おばあちゃんが何と答えたかは記憶にない。
 近所にレンタルビデオ屋ができて、はじめて宮﨑駿みやざきはやお作品を借りて見た。当時、宮作品は『風の谷のナウシカ』にしろ、『天空の城ラピュタ』にしろ、まったく注目されておらず、レンタルビデオを見て、大勢が「すごいじゃないか」と遅まきながら気づいたのだった。昭和のテレビ番組と言えば『ザ・ガマン』である。灼熱の海辺にビニールハウスを作り、その中でいかに水を飲まずに耐えられるかを競っていた。よく死人が出なかったなと思う。
 市バスに乗ると、タバコの煙がすごかった。座席から立ち上がるための手すりの途中に灰皿がセッティングされ、そこに吸い殻が捨てられている。教室でも先生がタバコを吸っていたし、職員室はいつも煙でもやがかかっていた。
 バスでも電車でも、大人はたいてい新聞を読んでいた。自分も大人になったら、あんなふうに器用に新聞を折り畳み、狭いスペースでも立ちながら読めるようになるのだろうか、と思ったものだが、違う未来が待っていた。あの新聞が支配する車内は、もう二度と戻らない風景だ。
 車の信号待ち渋滞が起きがちな道路に金網が接していたら、その網目には車内でゴミになった空き缶がびっしりと突き刺してあった。とにかく、街にゴミが多かった。老いも若きも、そこらじゅうで立ち小便をした。先生は生徒を簡単に殴った。老人は戦争の思い出話を語りたがった。一万円札は聖徳太子で、五百円札をまだ使っていた。テレビに映る有名人は、一生かかっても見かけることすらできない雲の上の存在だった。ただし、吉本芸人なら、近所の焼肉屋や南海電車でしょっちゅうすれ違った。
 天神祭てんじんまつりには見世物小屋が出ていた。
 入口で口上師のおっちゃんが、何やら白い布きれのようなものを手に、
「これに見えますは、妖怪ヘビ女が脱皮した際の皮でございます」
 と尋常ではないヘビ女の来歴について滔々とうとうと語る。小屋の上部に掛かる、ヘビ女を描いたおどろおどろしいホラーテイストの看板を見上げ、私は息を呑む。なぜなら、上半身は女性、下半身はヘビというとんでもない生き物がそこに描かれているからだ。このヘビ女が幕の向こうにいるのだという。うおおおぅ、えらいこっちゃ。
 見に行きたい、と父親に訴えた。
「だまされるだけだから、やめとけ」
 それでも行きたい、と主張した。
 この手のお願いにはまず折れない父親がなぜかこのときは、あっさりと「じゃ、行くか」とうなずいてくれた。
 口上師の横から、薄暗い通路に通された。
 そのまま進むと、教室ほどの空間に出た。
 テントのように天井は布で覆われ、正面には小さなステージが設けられていた。
 そこにヘビ女がいた。
 目視一秒で、だまされたとわかった。
 ステージに立つのは、ただのおばさんだった。下半身はヘビでもなんでもなく、おばあちゃんが着るシミーズを汚したようなものを纏い、そこからたくましい二本のすねがのぞいていた。髪はわしゃわしゃで、未開人ということをアピールしたいのか、変な顔でずっと吠えている。かと思えば、ライターの火を使って、火を噴く。さらには、目の前の桜の木(公園の樹木ごと小屋の中に取りこんでいる)から、葉っぱをちぎりむしゃむしゃと食べ始めた。
 ステージ近くでは若い男たちがやんやと喝采かっさいを送っていたが、子どもの目にすら、子どもだましが過ぎると映った。
「もうええわ、出よ」
 父親の手を引いたら、「そんなすぐに出たら、もったいないから、もう少し見よう」と逆に留まることを主張された。
 それでも数分経つと父親も「出るか」となり、出口で木戸銭大人800円、子ども500円を取られ、親子そろって渋面で小屋をあとにした。
「な、だから、言ったやろ」
 父親の言葉を聞いたあの瞬間、私は間違いなく少しだけ大人になった。
 立派なまがいものが大手を振って世を闊歩かっぽする時代だった。
 街の活気と猥雑さと不潔さは三位一体だった。子どもが公衆電話ボックスから家に電話をかけるとき、目の前には女性の上半身丸出しのピンクちらしが視界を塞がんばかりに貼りつけられていた。
 秩序が崩れがちだった室町時代の混沌から、茶や能や生け花といった後世に残る文化が多数芽生えたように、何でもありの昭和からタフな大衆文化がマグマの如く噴出したのは当然のことわりだっただろう。
 混沌の時間のあとには、整理整頓の時間が訪れる。
 我々はゴミや猥雑さが視界に入りこまないよう、清潔できれいな街を希求し、一心にそれを実現する一方で、汚い街でしか生み出し得ないエネルギーを今さらながらに欲している。それはまさにないものねだりなのだ。
 
   *
 
 このエッセイを担当してくれている、20代の編集者氏(もちろん平成生まれだ)に昭和についての印象を聞くと、
「戦争のあった前半と、バブルのあった後半で世相がまったく異なるので、ひとことでは言えないです」
 という答えが返ってきてなるほどと思った。
 昭和のスタートは1926年、ほぼ百年前である。確かに、簡単に答えられるものではない。それでも、
「未来はバラ色でこれからもっとよい世の中になると、みなが無邪気に信じていた、というイメージがあります」
 と評するのを聞いたとき、ふと一本の映画を思い出した。
『ニッポン無責任時代』
 1962年公開の、植木等うえきひとし主演のコメディー映画である。
「ハイそれまでョ」などクレージーキャッツの名曲が挿入歌として使われていることでも有名なこの映画。植木等演じる平凡なサラリーマンが適当に適当を重ねるも、それがなぜか毎度上手い方向に転び、やがて大団円を迎えるというストーリーだ。
 徹頭徹尾コメディー映画であるゆえ、そこにリアリティを求めるのは無粋であるわけだが、最近になって、この作品をはじめて見たとき、「ほんまかいな?」と疑問符が乱れ飛ぶシーンに出くわした。
 主人公は植木等の公開当時の年齢と同じと考え、35歳とする。
 彼は劇中、四畳半に住み、家財道具は壁際の箪笥一個のみ。スーツも一着だけ。今の基準で言ったら、完全に貧困生活を送っているのだ。
 しかし、彼は陽気だ。まったく現在の生活および未来に対し不安を抱かず、徹頭徹尾、お気楽かつ無責任を貫き通す。こちらはなぜその生活レベルで、そんなに無邪気でいられるのか、まったく理解できない。ついには植木等の天衣無縫な演技の裏に、虚無の影を勝手に嗅ぎ取る始末であるが、もちろん、そんなこみいった設定などあるはずもなく、いつだって天真爛漫、彼はただお気楽に生きているだけなのである。
「なんでやねん」
 公開から六十年以上が経ち、腹の底からツッコミを入れてしまった。
 全財産が四畳半にある箪笥一個の中身と、スーツ一着の35歳。もう少し、悲愴感があって然るべきではないか。だが、この主人公の設定を無茶とは思わない、製作者と観客が共有する無意識の同意が当時あったわけで、それこそがまさに、
「未来はバラ色とみなが無邪気に信じていた時代」
 である証左ではないか、と思いついたのだ。
 私が過ごした少年昭和時代後期は、バブルの崩壊が明確に始まり、無責任男のお気楽さはもう通用しない時代に突入していたが、それでも、細かいことはさほど気にせず、比較的おおらかに物事を受け止める昭和的空気はまだじゅうぶんに支配的だったように思う。
 最後に、今ならあり得ない昭和エピソードを披露してこの稿を終えよう。
 あれは東京ディズニーランドをはじめて訪れた1986年の出来事。
 まる一日たっぷりと楽しみ、最後に土産物ハウスでペナントを買った。当時、観光地に行くと、ペナントと呼ばれる、二等辺三角形の旗のようなものが必ず売られていた。
 厚ぼったいフェルト生地に、観光地のイラストなどが描かれているのが定番だったわけだが、ディズニーランドでもそれを販売していた。私は記念にひとつ買わんと、母親とともにレジに並んだ。
 レジ前には長蛇の列が発生していた。しかし、レジの女性は非常にゆっくりと作業をする方だった。順番が来て彼女の前に立ったとき、我慢できなくなった母親がつい口を挟んだ。
「あの、もう少し、テキパキやってくれません?」
 その瞬間、レジの女性が手にしたテナントをバキッと折った。
 いっさい無言のまま実行された怒りの発露に、私と母親は度肝を抜かれ、何も言い返せぬまま会計を終え、回復不能の折り目がついたテナントを受け取った。その後、別に苦情を申し出るわけでもなく、まあ、あんなこと言ったら、そういう反応もあり得るわな、とどこか納得しつつ大阪に帰り、その後も私の勉強机の前には、折り目のくっきりついたペナントが飾られ続けた――。
 今は完全無欠の夢の国にも、かつては間違いなく昭和の時代があったということで。

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