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第2回

今出川家御息女(いまでがわけのごそくじょ)の段

 学校で〈希望〉という字を習った。〈キ〉と〈ボウ〉だ。〈ボウ〉のほうの字は〈のぞみ〉とも読みますといずみ先生は言った。そのときは〈み〉をつけて〈望み〉と書く。では、ノートに五回ずつ書いてみましょう。

「先生!」

「はい、今出川いまでがわさん、どうしました」

「キの字ものぞみって読みます。〈み〉はつけなくて一文字で」

 先生は、あぁと気づいてわたしの胸の名札を見つめる。そしてちょっと困ったように笑う。きっと忘れてたんだ、〈希〉だって〈のぞみ〉と読むこと。

 わたしの名前は今出川希、イマデガワノゾミだ。簡単な字だから、幼稚園のときから漢字で書いてる。きっと先生より何回も書いてると思う。でも先生は、わたしの名札から目を外すと、わざとらしくにこっと笑って——そうすると、おとななのにえくぼができる——言った。

「あのね、お名前は特別なの。学校で習う漢字以外にも名前には使っていい字があるし、読み方も自由でいいの。だから、テストのとき、お名前の欄にはその通りに書いていいのよ。お父さんお母さんが皆さんのことを思ってつけてくれた大切な名前です。でも、あなたののぞみは何ですか、というときの〈のぞみ〉を漢字で書きなさいという問題には、〈望〉の字を書いてね」

 え、なんで? わたしののぞみは〈希〉だよ。そう書いたらダメなの? 先生の説明はそれだけで、何だかごまかされたみたいな気分になった。

「間違ってつけられたんだ、名前」

 後ろの席で海斗かいとくんがボソッと言った。岩崎いわさき海斗。三年生のときも同じクラスだった。アイウエオ順だとたいてい前後ろになっちゃう。授業が終わって先生がいなくなったら、途端に声も大きくなる。

「お前の名前は、のぞみじゃない。キだな。変な名前」

 何度も「おい、キ!」「キ、返事をしろ!」「キィッ、キッキ!」と繰り返して、何が嬉しいのかお腹をかかえて笑う。男子ってほんとバカっぽい。あんまりうるさいから蹴りを入れておいた。

 海斗くんは反撃しなかった代わりに、帰りの会で先生に言いつけて、おかげでふたりとも放課後職員室に連れていかれた。

 最初に𠮟られたのは海斗くんだ。海斗くんのほうが悪いから当然だ。それから先生は椅子ごとゆっくり回転してわたしのほうを向き、「気に入らないからと言って誰かを蹴ったりしてはいけません、わかるでしょう?」と言った。「まして女の子が足蹴りなんて……」と、ため息をつく。泉先生のため息は、いかにもおとなの女のひとっぽくてちょっとうっとりする。

「そうだ、そうだ、もっとおとなしくしてろ、このオトコオンナ」

 もちろん、そのあと、海斗くんはもういっぺん、今度はこっぴどく𠮟られて、わたしは涙目の海斗くんと雨上がりの道を一緒に帰る羽目になった。うざすぎる。

 だけど、アジサイの綺麗なお屋敷のところまできたら、母さまが手を振っているのが見えた。今日は一緒に道場に行く日なのに、わたしの帰りが遅いから迎えに来たみたいだ。

「じゃあね、バカ海斗」

「覚えてろよ、このキッキッキー」

 駆け出したわたしの後ろで何かほざいてたけど、相手にせずわたしはかあさまの袴めがけて飛び込んでいく。道場に行けるのも嬉しいけど、木曜日は母さまとふたりだけなのも最高。母さまはわたしの竹刀や防具袋を下げていたから、もう家へ寄らずそのまま電車に乗って道場に向かった。母さまは道場で子どもクラスの先生をしていて遅れるわけにはいかないのだ。

 道場では、わたしもみんなと一緒にお稽古をして、それが終わると、いつもは母さまが自分のお稽古をするのを見ている。でも今日はランドセルを背負ってきたから、待っている間に宿題をしていて、そしたら、みんなからうんと誉められた。だから母さまが連絡帳を見て喧嘩のことを知ったのは、夜、家に帰って、もうわたしが寝た後だったと思う。

 朝起きたら、床に正座させられて、これはどういうことですかとお説教された。なぜかわからないけど、うちでは𠮟られるとき、必ず正座させられる。

「道場の外で剣を振るったら破門だと言いましたよね」

「振ってないもん。蹴っただけだもん」

 教室には箒やモップもあるし、今は毎日傘を持っていくし、それで打ち込んでやったら気持ちがいいだろうとはもちろん思った。というか、いつも誘惑に駆られている。でもそんなことをしたら𠮟られるのはわかってるから、闘うときは足技と決めているのだ。

「テコンドーは習ってないから破門にならないもん」

「屁理屈言うのはやめなさい。暴力はダメです」

 ふてくされて「はーい」と言えば、「何ですか、その返事は!」って鬼になる。

「はいっ、もういたしません!」

 下手に逆らうと朝ごはん抜きになるから、このへんにしておかないとね。弟がリビングの入り口で、まるで自分が𠮟られてるみたいに固まってるし。

「よろしい」

 ようやく許されてちろっとベロを出したら、弟はくすっと笑った。母さまには見つからなかった。

 まだ寝ているとおさまが起きてきてもう一回𠮟られるのは嫌だから、さっさとごはんを食べて学校へ行く。朝から雨が降っていて、お誕生日に買ってもらった傘がさせる。透明のビニール傘にファンシーな町の景色がみっしり描き込まれていて、さしているとよその国にいるみたいだ。

 

 参観日があったのは、次の週。四年生になって初めてだ。

 授業参観は五校時なのに、その日はたいていみんな朝からそわそわして落ち着かない。わたしもそうだったけれど、理由はみんなとはちょっと違う。うちの母さまは、いつも袴だからだ。剣道と弓道と武家茶道を教える〈坂東巴流ばんどうともえりゅう〉の師範で、袴は似合うしかっこいい。ただ、学校にもその格好で来られると、変な風に目立つ。よそのお母さんたちは、ちょっとおめかししてパンプスなんかを履いてくる。うちの母さまは、お化粧もしないし髪もひっつめたまま、袴に草履だ。

 わたしはそういう母さましか知らないからこれが普通に見えるんだけど、そうじゃないんだ、変わってるんだってことは一年生の参観日になんとなく感じた。二年生でもしかしたらと思い、三年生で確信した。だから、今年は絶対お洋服で来てねと一週間も前から頼んでおいたのだ。

 なんとなく教室の後ろのほうがざわざわしている。母さまが来たのかな。でも、今日は、紺のブラウスとタイトスカートのはず。あれなら絶対大丈夫……と思って、ちらっと振り返ってみたら、げっ、父さま? 

 慌てて向き直って、教科書を見つめる。なんで父さま? そんなの聞いてない。うちの父さまはテレビにも出ててちょっと有名人で、それはいいけど、格好がぶっ飛んでることでは母さまなんか比べものにならない。千年も前の貴族が着てたみたいな麿まろルックを平気で着るひとだ。日本の伝統文化を広く世に伝えるためだって言ってるけど、おじゃる丸みたいで笑われてるような気もする。いいのよ、それでも、と言いながら今日も……、あ、違う、今日は普通のお着物に普通の羽織だ、よかった。

 じゃなくて! 着物ってだけで目立ってる。というより、父さまってだけで目立ってる。他はみんなお母さんだもん。ああ、やだなぁ、なんでぇって、わたしは教科書に隠れて小さくなってるのに、先生はわざと気をきかせたみたいに、「では、次は今出川さん」って。何? 聞いてなかったからわかんないよ。                                                                                           

 きょろきょろしたら隣の沙也さやちゃんが黒板のほうを指さしたから、ああ、そうかと思って立って行った。今日は音読みと訓読みのお勉強で、黒板に漢字や熟語が書いてあって、知ってる読み方を右と左に書いてゆくのだ。音読みなら右、訓読みなら左。

 沙也ちゃんがさっき、〈事典〉の右側に〈じてん〉と書いた。だからわたしはその〈事〉の左側に〈こと〉って書いた。はいよくできました、と先生が言って、ほっとしたついでに〈つかさ〉ともう一個書いた。〈典〉の左側に。

 これは絶対自信があったから、誉められると思って先生の顔を見たら、ああ、なんということでしょう、先生はまた困った顔をしていた。

「それも誰かのお名前なの?」

「弟……です」

「そう、いいお名前ですね。でも、学校では習わない読み方ね。〈典〉の字に訓読みはありません。前にも言いましたが、お名前は特別だから、自由な読み方ができるのね。だから、テストのとき、お名前の欄にはその通りに書いていいのよ。ふりがなもね。お父さんお母さんが皆さんのことを思ってつけてくれた大切な名前です。でも、この字の読み方は、という問題には〈てん〉とだけ書いてね」

 またやってしまった。失敗だ。しょんぼり席につこうとしたら、後ろの海斗くんが意地悪そうににんまりしている。

「弟の名前も間違ってるね。キッキの弟はテンだ。テンテンだ。ギャハハハハ」

 参観日。教室の後ろにはみんなのお母さんたちが立って見ている。という状況を一瞬忘れるくらいにその思いつきは面白かったらしい。海斗くんはこらえきれずに大きな声で笑い、先生はものすごく困った顔でコラコラと𠮟り、わたしはまだ突っ立ったまま動けなかった。恐る恐る父さまを見る。わが子の名前を馬鹿にされた親の気持ちはどんなだろう。泣きたくなってくる。

 なのに父さまは嬉しそうにニコニコしていて、わたしと目が合うとバチッとウインクしてよこした。状況、わかってないのかな。

 

「面白かったわぁ、授業参観。この次も絶対、行かな」

 父さまは授業参観のあと、夜のお仕事──というのは、学習塾の先生──に行って、わたしがお風呂からあがった頃に帰ってきた。でも、帰ってきて一番にしたのは弟のつーちゃん——断じてテンテンではない——のベッドを覗くことで、学校の話になったのは、母さまからひとしきりつーちゃんの容態を聞いてからだ。今日はつーちゃんが熱を出して、それで母さまは小学校に来られなかった。連絡を受けた父さまが、急いで代わりにやってきたというわけだ。

「だったら、そう言ってよ。なんで急に父さま来るの」

「では、誰も行かないほうがよかったのですか」

「そうかも」

「お仕事中なのに、抜けて行ってくださったのですよ。その言い草は何ですか」

「約束破ったの、母さまだもん。お洋服で来てくれるって」

「それはごめんなさいと言いましたよ。つかさがお熱だったのです。仕方がないでしょう。お姉さんなのですから、それくらい聞きわけないと」

「なんで、わたしばっかり」

「約束したでしょう」

「……そうだけど」

 というバトルがあったとも知らず、父さまは能天気だ。

「テンテンはよかったわよね。これからうちでもそう呼びましょう」

 噓でしょと思った。つーちゃんがかわいそうだ。

「今、訊いたら本人も喜んでたわよ。きゃっきゃ言うて」

 バカなのか。

「男の子はそういう言葉が好きなのです。テンテンとかチンチンとか。女の子よりずっと子どもなのです」

「父さまも?」

「ときどきそう思うことがあります。典と大差ないと」

 母さまは真面目な顔でそう言い、父さまはアホなこと言うたらあきませんと、わたしの頭に大きな手をのせた。

「あなたは、キッキやったかしら。それもかわいらしやないの」

 どこがだ。

「わたしは感心したわよ。あの先生、四方八方に気を遣わはって、今日日きょうびキラキラネームとか意味不明な名前をつける親も多いけど、全部大切なお名前です、間違いではありません言わはってね。漢字ひとつ教えるのも大変やわ」

 だからわたしは訊いた。希の名前は、ほんとうは間違いなの?

「そないなことあらしません。名前としてはむしろ王道ですやろ」

「でも辞書に載ってない」

「あら、そう。でも〈のぞみ〉という意味はあるはずやし、そう読んで悪いことはあらしません。辞書が全てとはいえへんのよ」

 父さまによれば、そもそも漢字は中国のものだ。日本にまだひらがなもカタカナもなかった頃、日本語を書くのに漢字を借りてきた。音だけ借りてきて使ったこともある。〈のぞみ〉と書きたいときは〈能曽美〉と書くとか。

 中国語を訳すときには一文字一文字の意味を日本語に置き換えた。〈望〉の字は〈のぞむ〉と読み、〈希〉の字は〈ねがう〉と読まれた。〈望む〉と〈願う〉は似たような意味だ。英語で言えば〈hope〉と〈wish〉のようなもので、どちらも〈のぞむ/のぞみ〉と訳すことができる。訓読みとは、訳語のことだ。

「そやけどね、テストいうのは、習ったことをどれくらい覚えたかぁゆうことを見るためのもんやしね、何もこの世の真実を問うているわけやないでしょう。四年生なら四年生で教わったことを、はい、覚えましたゆうて答えといたらよろしいのや。教わってへんことはそのテストの出題範囲と違う思てね。算数でも同じ。つるかめ算の問題を中学で習う方程式使うて解いても正解にはできひんでしょう」

 難しすぎてよくわからないけれど、わたしの名前が間違いでないなら、それはよかった。安心して、おやすみなさいをする。つーちゃんも寝ている子ども部屋に母さまも様子を見についてくる。

「ほんとにテンテンがいいって言ったのかなぁ」

 ふたりでつーちゃんの顔を覗き込んでたら、「テンテン……ふにっ」と言って寝返りを打った。母さまとわたしは黙って顔を見合わせて笑う。

 つーちゃんは心臓が悪い。大きくなったら手術をすることになっていて、そうしたら治るんだけど、それまではあまり走ったり跳んだりしちゃいけない。なんだかいつもそっと生きている感じ。

 つーちゃんが生まれたのは、わたしが四歳のときで、母さまと一緒に病院から帰ってきたときには、もう身体が弱いってわかってた。丸くて小さくて髪の毛もほわっとしか生えてないつーちゃんをちょうど今みたいに覗き込んで、その日わたしたちは誓ったのだ。

「父さまと母さまと希と、三人で絶対守ってあげましょうね」

「うん」とわたしは強く頷いた。剣道を始めたのはその頃だ。か弱いお姫さまを守る騎士の気分だった。つーちゃんはどんどん大きくなるから、わたしも急いで強くならないと守りきれない。

 

 次の日、学校に行くと、やっぱりみんなに父さまのことを訊かれた。沙也ちゃんもテレビで見たことがあると言う。そうなんだね。実を言うと、うちではテレビをほとんど見ない。父さまが出ていると知っていても母さまはテレビをつけない。

「えー、そうなの?」

「うん。父さま、麿な格好してた?」

「してた、してた。希ちゃんのパパって何者って、うちのママが言ってた。オイエモトなの?」

 そうなのだ。父さまはテレビタレントみたいに思われがちだけど、塾や大学の先生もしていて、ご本を書くお仕事もあって、でも一番大事にしているのは〈宝華院御流ほうげいんごりゅう〉という茶道のお家元の役目だったりもして、すごーく説明しにくい。パパは会社員ですってひとことで言える沙也ちゃんが羨ましい。

「じゃあ、希ちゃんもお茶習ってるの?」

「うん、土曜日は父さまのお稽古場に行くよ」

 剣道を始めたいと言ったとき、それが父さまの出した条件だった。坂東巴流で剣道を習うのはよい。弓道も中学生になったらやっていい。でも茶道だけは、父さまから宝華院御流を習う。父さまのお茶は公家流なのだ。公家っていうのは昔の貴族のこと。同じ茶道でも公家流と武家流ではずいぶん違ってて、父さまも母さまも自分の流派が一番だと思っているから、子どもはけっこう苦労する。

 父さまと母さまが結婚したとき、周りのひとたちは〈公武合体〉だと言ったそうだ。喧嘩すると〈承久じょうきゅうの乱〉。そういう歴史上のできごとがあったのだ。学校ではまだ教わらないから言っちゃいけないのかもしれないけれど。

   

「トーサマとかカーサマとか、変な呼び方」

 と、横から首を突っ込んでくるのはやっぱり海斗くんだ。

「お父さんなのに女みたいだし。髪長くて変なしゃべり方するし」

 相手にしたらいけない。父さまの髪が長いのは烏帽子えぼしをつけるとき丁髷ちょんまげにして中で留めるためだ。昔の男のひとはみんな髪が長かった。しゃべり方が聞き慣れないのは京ことばだからだ。父さまは京都育ちでおっとりしている。

「お母さんは男みたいだし。武士!」

 それは当たっている。母さまは東京育ちでしゃきしゃきしている。子どもの頃から武道一筋で、剣道七段、弓道六段だ。

「だから?」

 と、にらみつけてやったところに先生が入ってきて、朝の読書時間になった。みんな好きな本を持ってきて十分間読むのだ。わたしは宮本武蔵の伝記だ。いよいよ巌流島がんりゅうじまに向かって船をこいでいくところなのに、後ろからまだ海斗くんがしつこく何か言ってくる。

「キッキはオトコオンナだし、テンテンはオンナオトコだし、一家揃って気持ち悪いの」

 わたしは振り向きざま相手に摑みかかった。つーちゃんは病気なのだ。わたしみたいに跳んだり跳ねたりしたいのを必死で我慢してる。剣道だってすっごく羨ましそうに見てる。それを気持ち悪いって何だ、いつどこで見たのか知らないけど、迷惑かけたことなんかないはずだ。

   まさか先生の目の前で攻撃されるとは思わなかったらしいバカ海斗はポカンとしていた。そのまま椅子から引きずり出して、蹴りを入れるには周りの机が邪魔だったから、向こうの足に自分の足を引っかけてぐいっとすくったら見事に倒れた。途中、後ろの机にぶつかってゴチンバタンと音がした。それきり動かない。

「あ、血が出てる!」

 誰かが叫ぶと先生は真っ青になって海斗くんに駆け寄り、隣のクラスの先生も飛び込んできて、結局、救急車まで呼ばれる騒ぎになった。泣いている子が何人もいるのに、わたしはびっくりしすぎて声が出ない。ただ、息が苦しくて、何度も何度もしゃくりあげていた。

 ようやく救急車が来て、泉先生は海斗くんと一緒に行ってしまった。一校時は自習になって、わたしは保健室に連れて行かれた。ほんとうは校長室に呼ばれたところを、保健の先生が念のため怪我がないか見ておきましょうと引き取ってくれたのだ。ちょっと太ったおばさん先生。

  

 教室はあんなに騒がしかったのに、保健室はやけに静かで、いつの間に降り出したのか、サーッと雨の音が聞こえる。保健室の窓から見えるのは、濡れた柳の木だ。

「どこか痛いところは?」

 診察椅子に腰掛けたわたしは首を横に振る。怪我はしていない。すると、先生は少し身を乗り出してわたしの胸に拳を当てた。

「痛いでしょう、ここが」

 そっか、たしかに。心が、痛い。

「少し寝てなさい。お母さまがみえるまで」

 母さまが呼ばれるんだ。さっき「いってきます」したばかりなのに驚くだろうな。海斗くん、死んじゃったらどうしよう。警察も来るのかな。逮捕されたら、もう父さまにも母さまにも会えない。つーちゃんにも。って考えたら、今頃になって涙がだーっと溢れてきた。去年壊れた手洗い場の蛇口みたいに。

 保健の先生は、あらあらと言いながらわたしを立たせ、カーテンの向こうのベッドに寝かせてくれる。授業中に服を着たままベッドで寝るって、なんか変。でも、そのうち身体が温まってきて、いつの間にかぐっすり寝ていた。

 起こしてくれたのは母さまだった。一瞬、おうちにいるような気がして、あ、みんな夢だったのかもって思った。でも違う。病院みたいなカーテン。パイプのベッド。眠っている間のぬくぬくはすぐに冷めた。

「母さま」

 腰にしがみついたら、母さまはかがんでわたしを抱きしめてくれた。

「ごめんなさい」

 涙と一緒に言葉が出た。母さまはわたしの肩を押し戻して、まっすぐに見る。

「悪いとわかっているのですね」

「……はい」

「では、謝らねばなりません」

 二校時目が終わる頃、病院から泉先生が戻ってきた。

「驚きましたよ。暴力はいけないと言ったばかりなのに、どうして? 何があったの」

 あんなこと、母さまの前で言えない。

「ごめんなさい」

 それきり黙って俯いていたら、チャイムが鳴った。

「次の授業は出られる?」

「はい」

 先生と一緒に教室に戻って、黒板の前からみんなに謝った。

「さっきは乱暴なことしてごめんなさい。わたしのせいで授業ができなくなって、すみませんでした」

 ちゃんと頭を下げて、自分の席に戻るまで、母さまは心配そうに教室の外で見ていた。

「岩崎くんは大丈夫でした」

 先生がそう言うと、よかったーという空気が教室に流れた。

「怪我だけで済んで、歩いておうちに帰れたので、多分、明日は登校できると思います。今出川さんと岩崎くんは、きちんと仲直りします。皆さんは心配せずにいつもどおり接してあげてね。二度と教室でこんなことが起こらないように、みんなで注意しましょう。では教科書の……」

 三校時が終わると、沙也ちゃんが、わたしの肩を撫でながら「大丈夫?」と訊いてくれた。そういえばさっき息が苦しくてしゃくりあげていたとき、誰かが背中をさすってくれていた。あれも沙也ちゃんだったのかもしれない。

 沙也ちゃんの後ろのダイヤくんまで「今出川さんは悪くない」と言ってくれたのは驚いた。

「岩崎くんはちょっとひどい。ひとの名前のことああだこうだ言うのもむかつくし、さっきのは絶対あっちが悪い。ぼく、証言してあげるよ」

 そういえばダイヤくんの名前は〈宝石〉と書く。それがいやで、いまだに自分の名前をカタカナで書いてる。それでも充分にキラキラしているけど、アニメのキャラクターと一緒だから、それはいいらしい。

 わたしが漢字のことでからかわれている間、けっこうびくびくしていたみたいで、ほんとはちょっといい気味だったって小さな声で言う。

「そうそう、わたしも」って沙也ちゃんまで。

「さっきのあれ、何かのワザ? すごく簡単にひっくりかえっちゃって」

「ワザって別に……」

 そんなものではないけれど、言われてみれば小内刈こうちがりっぽかったかも。

「やっぱりー!」

 道場に子ども好きの変なおじさんがいて、暇そうにしていると体術を教えてくれたりする。外国人だけどコブドーに詳しいんだって母さまが言ってた。どんな葡萄かはよく知らない。

    

 家に帰ると、母さまはクッキーの包みを用意して待っていた。もちろんわたしの分じゃない。海斗くんに持っていくお詫びの品だ。つーちゃんをお隣に預けて、わたしとふたりで出かける。今日はふたりきりでも全然嬉しくない。お気に入りの傘をさしても気分は上がらない。

 海斗くんの家は、歩いて十分くらいのところにある古いマンションだ。一階のエントランスの脇に綺麗な薔薇がたくさん咲いていた。

 三階に〈岩崎〉の表札を見つけてチャイムを押すと、疲れた感じのお母さんがドアを開けてくれた。

 うちの母さまが、このたびは娘がなんとかと謝っているのを、ぼーっと不思議そうに眺めているのは、疲れているせいだけじゃなくて、きっと母さまの格好のせいだ。お洋服のほうがいいって言ってあげる余裕がわたしにもなかった。

「あなたもきちんとお詫びしなさい」

 母さまの後ろに隠れていたわたしが押し出されると、海斗くんのお母さんはやっと目覚めたみたいにわたしを見た。

「こんなに小さなお嬢さんにうちの海斗は負けたんですか」

 たしかにわたしは小柄なほうだけど。

「すみませんっ。日頃武道をたしなませているものですから。ほら、お詫びしなさい。海斗くんが救急車で運ばれて、お母様がどれくらいご心配だったか、あなたにわかりますか」

 保健室で母さまに抱きしめられたときのことを思い出して、じわっとした。海斗くんのお母さんも何か思い出したように目を潤ませている。

「海斗くんにケガさせてごめんなさい」

 目をごしごししながら頭を下げたら、海斗くんのお母さんは、わかりましたと許してくれた。

「海斗、海斗」と奥に向かって声をかける。すぐそこで聞いていたらしい海斗くんが玄関に出てきた。あたまに白いネットをかぶっている。一針縫ったらしい。わたしの顔を見ると、ぷいっと顔をそむけた。ふんっと思ったけど、それでも、わたしが謝らないといけないのだ。と思って息を吸ったら、海斗くんのお母さんが、ちょっと待ってと止めた。

「先にうちの子から謝らせます」

 母さまとわたしは目を見合わせた。

「ずいぶん失礼なことをうちの子が言ったそうです」

 海斗くんのお母さんは、何が原因でこんなことになったのか、全部聞き出していた。

 父さまを女みたいと言ったことも、母さまを男みたいと言ったことも、わたしのことも……。

「オトコオンナ……」

 母さまはショックを受けている。

「主人がこの子にいつも男らしくしろとうるさく言うせいかもしれません」

 海斗くんのお父さんは警察官で、男は強く、女は優しくがモットーなのだそうだ。

「男は女を守るものだ。女性に手を上げたりする男は最低だって、近頃そういう事件が多いからなんですけど、そのたびに息子に言いきかせていて。ですから、不思議だったんですよ。喧嘩の相手が女の子だったと聞いて」

 たしかに海斗くんは絶対わたしに手を上げない。その代わり嫌みを言ったり、先生に告げ口したりするのだ。

「申し訳ありませんでした。言葉も暴力なのだと𠮟っておきましたので」

「い、いえ、こちらこそ。わたくしもこんななりをしているものですから、よく娘から怖いと言われますし……夫は夫で、アレですし……」

 結局、海斗くんが先に謝って、わたしが次に謝って、お互いにもう嫌みは言わない、蹴ったり倒したりしないと約束した。

 海斗くんのお母さんは、参観日のことも謝ってくれた。お母さん自身はあの日学校には来られなかったそうだ。介護のお仕事をしていて、どうしてもお休みできなかった。

「それでこの子の祖母が代わりに行ったんですけど、恥ずかしくなって途中で帰ってきてしまったと言ってました。ほんとうにまったく……」

 きょとんとしている母さまに「テンテン」とだけわたしは言った。

 

「立派なお母さまでした。実にご立派な」

 帰り道、母さまは何度もそう言った。

「そしてあなたも。家族の名誉のために闘ったのですね」

 びっくりして母さまを見上げた。もしかして誉められてる?

「争いごとはよくないことですが、それでもひとには闘わなければならないときもあります。命がかかっているときと名誉がかかっているときです。命がかかっているときには手段を選ばず、どんなずるいことをしてでも勝って生き残らなければなりません」

 ずるいことしてもいいのか。

「あなたのような子どもの命がかかるというのは、よくよくのことですからね。あってはならないことですが、万一そんな事態に陥ったときには、使えるものは何でも使わねばなりません」

 立ち止まる母さまの後ろにはオレンジ色の花がたくさん咲いていて、上から覆い被さってくるようだった。たしかノウゼンカズラという花だ。

「しかし、名誉がかかっている闘いは、フェアでなくては意味がありません。教室でいきなり摑みかかって蹴倒すのはいけません。ひとつ間違えば死んでしまうことだってあり得たのですよ。武術というものは、常に死と隣り合わせなのだということを、子どもだから知らなくていいという理屈はありません」

 わかってる。今日は海斗くんが傷だけで済んでほんとによかった。

「まあ、何にせよ、これで当分、あなたをからかったりいじめたりする子はいなくなるでしょう。なにしろ、そんなことをしたら病院送りなんですから」

 カラカラと母さまは笑って空を見上げた。雨はあがってうっすら虹も出ている。

「あなたは、ほんとにわたしの子なのですね」

 それはどういう意味だろう。もしかして、母さまも子どものころ男の子をやっつけてたの? 何回訊いても、母さまは、さあ、どうだったでしょうととぼけて答えてくれなかった。

 

 夜になって帰ってきた父さまは、少し酔っ払っていて、こんな大変な日に何ということと母さまに𠮟られていた。

「仕方がないわよ。男には付き合いってものがありますから。おっさんに誘われたら断られしませんやろ」

 父さまの言う〈おっさん〉は、おじさんのことじゃなくて和尚さんのことだ。きっとお茶のお稽古をしているお寺の和尚さんだ。

「男とか女とか、今日はもうそういう言葉は聞きたくありません!」

 母さまは耳を塞ぐ。理由を訊かれて仕方なくわたしが報告する。父さまや母さまが何と言われたのか。怒るかなと思ったのに、ここでも父さまは大笑いした。何が面白いのだろう。

 でも、ひとしきり笑うと、少し真面目になった。

「あのね、希。どんな男のひとの中にも女っぽいところがあって、どんな女のひとの中にも男っぽいところがあって、それが当たり前なんやわ。そやかてどちらも人間として必要な性質やしね。男っぽさと女っぽさの割合が一対九のひともいれば五対五で半々なひともいてるし逆転してるひともいてはる。けど零対十やら十対零なひとはまずいてへんと思うわ。みんなどっちかゆうたら男性寄り、どっちかゆうたら女性寄りゆうこととちがうかしら。身体はともかく心は、そないきっぱりしたもんちゃうんやない? もっとゆらゆらしたもんや。海斗くんはきっと警官のお父さまみたいな強さを〈男らしい〉思てはんにゃろけど、京都の男衆はそんな強さより教養こそが男性的なもんと考えてきたし、そうゆうたら、そもそも何が〈男らしさ〉で何が〈女らしさ〉かぁゆうのんも一概には言われへんわねぇ。〈母は強し〉て言いますやろ。世の中で母親ほど強いもんはあらしません」

 たしかに母さまは強いけど、そういう強さのことではないみたいだ。

「そやねぇ。今度、うちのこととやかく言われたら、こうおっしゃい。今出川家はジェンダーフリーな家族なんですてね。それで、解決、解決」

 何、それ。

「そうや、今度お茶会にお招きしたらどない? 今日のお詫びにゆうて。希かて乱暴者のレッテル貼られたままでは困りますやろ。誘ってみよし」

 

 

 というわけで、七夕のお茶会。海斗くんは、そんなの興味ないと最初はごねていたけれど、沙也ちゃんとダイヤくんも来ると言ったら、じゃあ、行ってやると偉そうに答えた。三人とも母さまが引率してくれる。わたしとつーちゃんは父さまと出かけてお手伝いだ。

 七夕のお茶会は、綺麗なものをたくさん飾るから好きだ。色とりどりの糸や布、金の細工のある硯箱や笛や琵琶。そして、大きな梶の葉に願い事を書いて笹竹に吊るす。短冊じゃなくて葉っぱに書くところが面白いと思う。お客さんにも書いてもらう。あとから見たら、海斗くんの葉っぱには、〈お父さんも参観日に来ますように〉と書いてあった。

 父さまはもちろん、ここぞとばかりの麿ルック——狩衣かりぎぬに烏帽子——で、お運びをするわたしは汗衫かざみという女の子用の服を着せられている。紫の袴の上に何枚か薄い着物を羽織る感じで、これがものすごく綺麗な生地きじだ。お花のような模様を織り出した白い生地は透けて、その下のピンク色がうっすら見える。その下にはもう一枚黄緑の着物を着ていて、撫子なでしこみたいでしょと父さまは言った。つーちゃんは男の子用の童水干わらわすいかんを着ている。これもめちゃくちゃかわいい。

 わたしもつーちゃんも、ただ出て行くだけで、まあ、かわいいとおとなたちから絶賛される。朝からいい気分だった。

 見ると、海斗くんたちは畳の上で固まっていた。膝に手を置いて、ぴんと背筋を伸ばして正座している。周りはおとなだらけで緊張しているのがわかる。そりゃそうだ。そこにわたしは澄ましてお菓子を運んでゆく。「どうぞ召し上がれ」と丁寧なお辞儀をする。にこっとすれば完璧だ。お茶も運んでいく。お抹茶碗を台にのせて、転ばないように、こぼさないように、そっと持ってゆき、お客さんの前に坐ったら台ごと正面を向こうに向けて静かに置く。毎年お手伝いしているからお手のものだ。ほら、母さまも感心している。

 沙也ちゃんは目をきらきらさせている。ダイヤくんは尊敬のまなざし。海斗くんは、完全に目が点になってる。「誰だ、おまえ」って言いたそう。

 わたしだっていつもいつも武士なわけじゃない。姫になれと言われればなる。京ことばだってほんとうは話せる。父さまと十年も一緒に暮らしているのだ。

「母さまとお友だち、来やはりました」

 お水屋で父さまの背中に声をかけると、父さまはくるりと振り向いて、かわいくてたまらないといった風に、わたしを抱きしめる。

「あなたは、ほんまにわたしの子ぉやわ」

 海斗くんがどう言おうと、今出川家は、ジェンダーフリーで、コーブガッタイで、バイリンガルな最強一家なのだ。

 

 

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松村栄子(まつむら・えいこ)

1961年静岡県生まれ、福島県育ち。筑波大学第二学群比較文化学類卒業。90年『僕はかぐや姫』で海燕新人文学賞を、92年『至高聖所(アバトーン)』で芥川賞を受賞。著書に、「粗茶一服」シリーズ、『僕はかぐや姫/至高聖所(アバトーン)』、エッセイに『ひよっこ茶人、茶会へまいる。』『京都で読む徒然草』、詩集に『存在確率──わたしの体積と質量、そして輪郭』などがある。京都市在住。

  

                                                             

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