ドーン、ドーン、ドーンと、3回、太鼓を叩く音がした。
ヒーローショーを見たいというのは、息子の大吾のリクエストだった。
家族4人でイベントステージに来てみたのだが、客席はまばらであまり人がいない。
派手なシマシマ紅白のエプロンをつけたピエロが、客席周りを闊歩している。
さっきの太鼓はこのピエロが叩いたのだ。
調理器具を下げたカートに、時計の針がついた大きな丸い太鼓が載っている。
時刻を見るに、3時の時報だったらしい。
ヒーローショーが始まるのは15時15分とパンフレットに書いてあった。
そのうち客が集まってくるだろうと思いながら、俺たちは客席に向かっていく。
うちの家族構成は、俺と、妻の芳子、11歳の理穂、5歳の大吾だ。
遊園地に来て、家族4人が2人ずつに分かれて行動するにはちょうどいい。
さっきも、俺と大吾がフードコートでのんびりしているうち、理穂は芳子と一緒にジェットコースターに行っていた。
「ヒーローショーって、何やるんだろ」
理穂は興味なさそうについてくる。
小学5年生のお年頃は、もう、こんなものはガキっぽく感じるのかもしれない。仕方なくつきあってやるという様子がありありだった。
「一番前の席がいいなあ!」
大吾がはしゃいで観客席に走っていった。自由席なのでどこでもいいようだ。
ピエロの前を通り過ぎるとき、すれ違いざま、
「ワラッテ!」
と言われた。
はあ。
笑って?
「あははははは!」
俺はピエロに笑って見せる。
ピエロも大きなおなかをゆすって笑った。
外国人であろう彼は、朝、回転マシンの前でポップコーンを配っていたピエロだ。大吾もポップコーンをもらって、おいしいおいしいと言って夢中で食べていた。
「ピエロさーん、さっきはありがとう!」
大吾が、ピエロに手を振る。
ピエロはにいっと、ぺったり赤くペイントされた口角を上げ、カートにつけられていた風船をひとつ、大吾に渡した。
糸がつけられた風船はふわりと浮かんでいる。大吾は手に持ちたがったが、こんな小さい子どもではうっかりすぐに離してしまうだろう。
風船が飛んでいかないように、俺は大吾の腕に風船の紐を一周させて結わえた。
大吾はそれがすごく気に入ったようで、何度も腕を上下させて喜んだ。
そして自ら客席の最前列まで行って座ると、足をぶらぶらさせながら言った。
「ねえ、おやつ食べたい。3時だよ」
俺はちょっとあきれて笑った。
「本当に食いしん坊なヤツだな。ポップコーン食べて、ソフトクリーム食べて、姉ちゃんのマネしてホットドッグ食べたじゃないか」
大吾は聞く耳を持たず、芳子に顔を向ける。
「お母さん、さっきドーナツ買ってたでしょ。あれ食べたい」
芳子が苦笑しながら、トートバッグの中から紙袋を取り出した。
フードコートでテイクアウトしていたのを、大吾はしっかり見ていたのだ。
芳子はペーパーナプキンにドーナツを挟み、大吾に渡す。
苺のチョコレートがかかったドーナツにかぶりつきながら、大吾は穴をのぞいた。
「どうしてドーナツには穴があいてるの?」
芳子はすっと答える。
「説はいろいろあるけど、揚げやすいからっていうのが一番でしょうね。あとは、わっかの形、楽しいでしょ。それも大事なことよ」
そこで彼女は、ふふふと笑い、こう続けた。
「でも、穴のあいていないドーナツもあるでしょう。ねじってるのとか、ボールとか。ドーナツは穴があいているものって、決めなくてもいいのよ」
さすが教師だ。
芳子は本当に、なんでもすらすら答えられるんだな。すごいな。
彼女に質問すれば必ず答えが返ってくる。しかも補足説明つきで。
賢くてユーモアがあって、しっかり者で。まったく俺には太刀打ちできない。
芳子みたいな母親がいる子どもたちにとって、俺は父親としてへなへなで頼りない男なんだろうな。
たとえば、大吾のしめった手ににぎりしめられているペーパーナプキン程度の。
ドーナツの甘い匂いを嗅いでいたら、遠い昔のことを思い出した。
新婚旅行で芳子とアメリカに行ったときのことだ。
中古レコード屋で見つけたシングル・レコード。
「ドーナツ盤」ともいうんだよなって話しながら、あれこれ手にして楽しんだ。
俺はそのとき、一枚のドーナツ盤を芳子にプレゼントしたんだ。
ハネムーンの想い出にって、エルビス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を。
家にはレコードプレイヤーなんかないのに、つくづくばかな話だ。
だけど芳子は「いいの、私にはちゃんと聴こえるわ」なんて、まあ、新婚さんの甘い会話ってことで、俺の中ではスイートな記憶になっている。
ラブ・ミー・テンダー。
情けないことにテンダーの意味がうろ覚えだった俺は、そのとき芳子に教えてもらった。
「優しい」とか「思いやりがある」ってことだ。
結局、俺はあのレコードを聴いたことはない。たぶん芳子も。
ほどなくして、明るい音楽が聴こえてきた。
ステージの上に着ぐるみのキャラクターが2人、登場する。
この遊園地のオリジナルキャラだ。犬とウサギ……であろう。たぶん。おそろしくダサい。
「みなさーん、こんにちは!」
ふたりは客席に両手をぴろぴろと振り、声を揃えた。
「山中青田遊園地へようこそ!」
彼らの胸元には、カタカナで名前らしきものがフェルト地で貼られていた。
半ズボンを穿いた犬が「ヤー」、耳にリボンをつけたウサギが「アー」だ。
山中のヤー、青田のアー。ネーミングもはなはだ芸がない。
いい天気だねとか、遊園地は楽しいねとか雑談をしながら、ヤーが言った。
「最近、僕たちのことをおどかしたり、いたずらばっかりしてくるキーキー族っていう集団がいるんだ」
「こわいわねえ」
アーも身震いしている。
そこに、合図のように「ババーン!」という効果音が鳴り、ステージの端から今度は猫の着ぐるみが登場した。
青いボディースーツと赤いブーツ。あきらかに、正義のヒーローだった。
「困っている人の力になりたい、ぐるにゃん戦士だよ!」
山中青田遊園地が正式名称のこの遊園地は、みんなに「ぐるぐるめ」と呼ばれている。
その理由がいまいちわからなかったのだが、そうか、「ぐるにゃん戦士」から来てるのか。
……いや、待てよ。このヒーローっていつからいるんだ? まだ新しいよな。
ひょっとして、みんなが「ぐるぐるめ」って呼びだしたから後付けで生まれたのか。
だとしたらすごい話だな。大衆の声がヒーローを生むなんて。
しかしそのあとのステージは、なんとも退屈な展開だった。
3人がぐだぐだとゆるい話をしているうち、最初はまばらにいた客が、ひとり、ふたりと席を離れて行く。
「私、もうプール行きたい」
理穂がごねだした。
このイベントステージが終わったら、園内のプールに行こうと話していたのだ。
トートバッグに入れた水着を早く着たいらしい。
ちらっと、芳子が俺を見た。俺はその目に合図を読んだ。彼女たちだけ先に行くという提案なのだろう。
あたりを見回すと、客席にはもう、ごく少数しかいなかった。
最後列でイチャイチャしてるカップル、端っこで座ったまま眠りこけているおっさん。
あとは、最前列の俺たち4人。
もはや、このステージは俺たち家族のために上演されているといっても過言ではない。
こんな目の前でまたふたり離脱していったら、彼らはどれだけ心が折れるだろう……。
きっとがんばって練習してきただろうに。
「……ちょっと、待ってな。もう少し見てからにしろ」
俺が阻止すると、理穂は唇を尖らせながらもステージに顔を向けた。
舞台の上では、猫とウサギと犬がわちゃわちゃと話している。
「ぐるにゃんは戦士なの?」
「そうだよ!」
「あのね、僕たちのことをおどかしたり、いたずらばっかりしてくるキーキー族っていうやつらがいて、困ってるんだ」
「ようし、まかせろ!」
そこに突然、「キー!」という雄たけびが聴こえた。
ステージの両脇から、揃いの黒マスクと全身黒タイツの奴らがふたりずつ現れ、ぐるにゃん戦士たちを威嚇する。
弱そうだが気味悪くはある。なかなかのインパクトだった。
「出たな! キーキー族のキーキーマンたちめ! 僕が許さないぞ!」
ぐるにゃん戦士は勇ましく戦いのポーズを取る。
するとキーキー族は二手に分かれ、客席に降りてきた。
右側と左側で、本来ならいると思われた客に向かってキーキー驚かせるつもりだったのだろう。
しかしステージ付近の客は俺たち家族4人しかいない。
最後列のカップルのところまで行ってわざわざ邪魔するのも、寝ているおっさんを起こすのも得策ではないと踏んだようで、遠くまではいかず近くで騒いでいる。
「キー!」
ひとりのキーキーマンが、両手を大吾のほうに広げた。
その瞬間、大吾が「あっ」と叫んだ。
腕に結わえてあった風船の紐が外れてしまったのだ。
とっさに、キーキーマンは軽くジャンプし、風船をキャッチした。
お見事だった。思わず家族4人、おおー!と歓声を上げてしまったくらいだ。
大吾は「うわあ、ありがとう」と風船を受け取る。
俺はなんだかほほえましい気持ちになった。
キーキーマンの「中の人」の素が、思わず出ちゃったんだな。
見えないけどわかる。あの黒マスクの下は、きっと笑顔だっただろう。
しかし今、彼はキーキーマンである。
ステージに戻ると、ぐるにゃん戦士に向かって「キー!」と怪しい動きを見せながら近寄っていった。
「とぉーっ!」
ぐるにゃん戦士が彼に向かって飛び蹴りをしかけた、そのとき。
「やめて! けらないで!」
大吾が大声で叫んだ。
思わず、俺たち家族も、
ぐるにゃん戦士も、キーキーマンも、ヤーもアーも、
ぴたっとフリーズした。
世界が止まった。
物語が止まった。
理穂があわてて大吾をたしなめる。
「やだ、ちょっと大吾。あれは悪いヤツだからやっつけないと……」
大吾は涙ながらに訴えた。
「悪くないよ。あのキーキーマンは、ぼくの風船を取ってくれたよ、いい人だよ!」
それはそうだけど、と理穂は口ごもる。
ぐるにゃん戦士たちはシンとして動かなくなってしまった。
「ぐるにゃん戦士はどうしてあの人をけってもいいの? それは悪いことじゃないの?」
俺はハッとして、息をのんだ。
芳子も黙って、真剣な表情で大吾を見ている。
理穂が真っ赤な顔をして言った。
「やだ、もう。私、やっぱりもうプール行ってるね。恥ずかしい」
俺はぼそりと低い声でつぶやいていた。
「恥ずかしくないぞ」
理穂がこちらを見る。俺はしっかり理穂に向かって言った。
「恥ずかしくなんか、ない」
すると理穂は何か突かれたように真顔になり、浮かしかけていた腰を椅子に降ろした。
少しの間、棒立ちになっていたぐるにゃん戦士が、突然バッと両腕を顔の前でバッテンにした。
「よーしっ、ここからは、ぐるぐるで勝負だ!」
ぐるにゃん戦士は、ぐるっと一回、バク転した。
「すごい!」
大吾が目を丸くしている。
ぐるにゃん戦士は得意気に笑った。
「僕は猫だから、お手の物さ!」
なるほど、たしかに。
初めからそういう台本だったのか、この不測の事態にぐるにゃん戦士がアドリブを利かせたのか、そこからの「戦い」は互いのパフォーマンスの披露会だった。
ぐるにゃん戦士がバク転し、キーキー族が側転し、ステージはぐるぐるとアクターたちが回り続ける目を見張るような楽しいショーになっていた。
どちらもすごい。俺は大きく大きく拍手した。
いいぞ、ぐるぐるめ!!
素晴らしいステージだ。それぞれの技を競い合う、こんな切磋琢磨な「戦い」を見せてくれるなんて。
アップテンポな音楽に合わせてヤーとアーが踊り出し、いつのまにか、観客が増えていた。
おっさんは目を覚ましてステージを観ているし、カップルも手を叩いている。
気が付けば、ステージのすぐ下でピエロもくるくると腕を回している。
笑って。笑って。笑って。
音楽がだんだんスローになり、キーキーマンたちは疲れた仕草で座り込んでいった。
ぐるにゃん戦士がひときわ大きなバク転を決め、ジャン!と大きな効果音が響く。
ヤーが嬉しそうに叫んだ。
「勝負あり! キーキー族はもう、いたずらはしないって言ってるね!」
ぐるにゃん戦士はうなずき、明るく言った。
「でも、キーキー族のぐるぐるもすごかったよ。そのパワーを、みんなで楽しいことに使えたらいいね!」
大きな拍手の中で、ステージは幕を閉じた。
風船を取ってくれたキーキーマンが、去り際に、大吾に向かってことさら大きく手を振っていた。
ぼうっと拍手をしたまま、理穂がぽつんとつぶやいた。
「……正義のヒーローは、悪者に暴力をふるってもいいのか……。どうなんだろう?」
それを聞いて、芳子が理穂に穏やかに言う。
「それはまず、正義とは何かというところから考えなくちゃいけないわ。理穂は、どう思ったの」
「私は、よくわからない。だって、今までそういうもんだと思ってたし」
うつむきがちにそこまで言って、理穂はぱっと顔を上げた。
「でも、ちゃんと考えてみたいなって思った」
芳子は片腕で理穂をぎゅっと抱き寄せる。
「それが今の理穂にとって、一番素晴らしい『答え』よ」
客席を立ち、大吾は風船を揺らしながら小走りに会場を出る。
理穂もプールに行きたくて少し早足だ。
子どもたちふたりの背中を見ながら、俺は芳子に言った。
「ああいう答え方もあるんだな。芳子はなんでも正解をぱっと出すんだと思ってたよ」
芳子は首を振りながら笑った。
「何言ってるの。この世の大半は、正解のない問いばかりよ」
そうして満足そうに、愛おしそうに子どもたちを見た。
肩を並べて歩いていると、不意に芳子が言った。
「ねえ、大吾って、あなたに似てるわよね」
「え、そうかな」
イヤかな、俺に似たら。内心そう思っていると、芳子は俺を見上げてほほえむ。
「うん、似てる」
「どんなところが?」
「だって、持ってるじゃない。中心の軸がブレない、優しさいっぱいの愛」
そう言って芳子は、子どもたちを追うようにして俺の前を歩いていく。
風に乗ってふわりと、芳子から「ラブ・ミー・テンダー」の鼻歌が聴こえてきた。