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第10回

【変な奴やめたい。10】恨まれたくない

 ある日、YouTubeで大好きなカズレーザーの動画を見ていると、カズが「ホットドックは両端を交互にかじって食べる」「アルフォートの船が描いてある面は見ないで食べる」というような話をしていた。

 他人には理解できないしうまく説明はできないけれど、誰に言われるでもなくついやってしまう癖のようなものの話らしい。

 カズはアルフォートの船を見ない理由について「齧ると船が沈んじゃうから」と答えていた。あんなに頭がいいのになんて可愛らしいことを言うのだろうと、私は歯ブラシを咥えたままうっとりしつつ、自分にも同じような癖がないか思い返してみた。

 カズの言うような「やめろと言われればやめられないことはないけど、やらないと何とも言い難く後ろめたいこと」というのは、きっと誰にでもあるのだろう。

 そういえば、私は食器を水に浸すのが怖い。使った箸やスプーンを水の入った桶に突っ込むのを、いつもなんとなく避けている。

 我ながら馬鹿馬鹿しいとは思うが、もし食器が呼吸をしていたとしたら、私のせいで彼らが溺れてしまうのではないかと頭の片隅で考えてしまうのだ。

 同じような理由で箸を上下さかさまに箸置きに立てることも避けている。さかさまに立てられて、頭に血が上ったら苦しいだろうと想像する。

 実際食器の頭がどちら側についているかなんてわからない、というか頭なんてついちゃいないのだけれど、古来からの「神は万物に宿る」なんて教えを馬鹿真面目に受け取りすぎたのか、はたまた幼少期にトイ・ストーリーに感情移入しすぎたのか、私は物に対して軽い強迫観念のようなものを抱いたまま大人になっていた。

 私は物に恨まれることを異様に恐れている。久しぶりに帰った実家の部屋は、いまだ処分できていない大量のぬいぐるみや人形に埋め尽くされていた。

 棚の上から私を見下ろしている巨大なクマのぬいぐるみ、大きなカゴに山盛り詰められた有象無象、そしてベットを占領する薄汚れたシナモロールを筆頭としたレギュラーメンバーたち。

 高校生くらいまでは、このすべてをベッドに並べて眠っていたのだから恐ろしい。小学生のころに至っては、私はこの20体以上のぬいぐるみひとつひとつに「おやすみの挨拶」をしていた。

 人形には「おやすみ」、犬のぬいぐるみには「わわわわん」、うさぎのぬいぐるみには「うさうさ」と言った具合に、自分なりに考えたそれぞれの「おやすみ」をブツブツと唱えながら丁寧に頭を撫でていく。挨拶は順番が決まっていて、間違えたらまた最初からやり直す。

 今になって思えば、あれは挨拶というよりもはや儀式に近かった。

 寝る間も惜しんで毎晩奇妙な儀式を行っていた娘を、なぜ両親は止めてくれなかったのだろう。きっとなんらかのカウンセリングが必要だったに違いない。

 挨拶の他にも、数日にいちどは寝返りを打たせてあげたり、足や腕の向きを変えてあげたり、寒くないように毛布を掛けたり、とにかく幼少の私の生活はぬいぐるみたちのケアを中心に回っていた。

 ときどき髪がボサボサのバービー人形に追いかけられる悪夢にうなされながら、私は子どもながらに「一体なにをしているんだろう」と思い悩んでいた。

 テレビでは乱暴に扱われたおもちゃが泣いてたり、遊んでもらえなくなった人形たちが夜な夜な動き出して子供の成長を嘆いたりしている。物を大切にしましょうなんて大人たちは言うけれど、大切にしすぎたおかげでベッドには肝心の私が寝るためのスペースがない。毎晩ミジンコのように縮こまって寝ているせいで、起きたときにはぐったり疲れていることもあった。

 物を大切にするってこれであってるのか?

 私たちは人間だから、物がどういうふうにしてほしいのかわからない。だから人間と同じように大切にするしかないのだ。いつかはお別れしなければならないのはわかっているのに、自分で決断する勇気はないまま、私はいつのまにか大人になってしまっていた。

 ぬいぐるみに対しても、人に対しても、私の愛し方は子どもの頃からほとんど変わっていない。自分のことは後回しにして、思いつく限り相手が心地よいようにして、別れるべきときには見て見ぬふり。去っていくのはいつも必ず相手の方だった。

 愛情深く器が広いと言えば聞こえはいいが、要は恨まれたくないのだ。人にも箸にも、歯ブラシにすら私は恨まれたくない。悪徳商法にもたやすくひっかかるし、店員に勧められたものは必要がなくても買ってしまう。     それで納得しているのだと自己暗示をかけて、相手のがっかりした顔を回避する。

 母がいつの間にか人形の一部を処分したことに気づき、私は悲しむと同時にどこかホッとしていた。こうやって誰かが私の代わりに決断してくれているうちは、私はなにも背負わなくていい。私はずるい。

 数か月ほど前、駅前を歩いていたときに声を掛けられた。色素の薄い、綺麗な目をした子どもだった。「家に帰るまでの電車代がないんです」と言われて、あぁ寸借詐欺か、とすぐに勘付いた。どこかで親か誰かが指示しているのだろう。財布を開いて中身を見せ、「私もお金ないんだ、ごめんね」と言ってその場を去った。

 改札の前まで行って立ち止まり、ちいさく呻く。

 私はどうしたらいいのか。いや、どうしたらいいかはわかっていた。お金を渡してもあの子のためにはならないのは、少し考えればわかることだ。立ち尽くしたまましばらく悩んで、ATM でなけなしの千円をおろして少年のところへ戻り、押し付けるように渡した。

 わかっている。これで救われるのは私だけなのだ。本当の優しさはこんなところにないのだと知ってからもうしばらく経っているのに、私は恨まれることが怖い。

 それから1か月ほど経って、ふたたび同じ場所で同じ少年に同じ文句で電車賃をせがまれた。「君いつも電車賃ないんだな」と言って、私はまた千円を渡した。

 少年がしくじった、という顔をして固まっているうちに、私は逃げるようにその場から離れた。私は彼の人生をすこしずつ壊している。どうか、もうにどと会いませんように。

 汚れてボロボロになったぬいぐるみたちが、私を静かに見つめている。

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