
我が家の見慣れた光景といえば、祖父が居間で送り状を書く姿だ。毎年田舎からりんごや食用菊、ふきのとうなんかが送られてくると、祖母はそのお返しに、横浜のお菓子や、都会のちょっとした珍しいもの(最近は私の書いた本も含まれている)を箱に詰めて田舎へ送る。読み書きができない祖母の代わりに送り状を書くのが祖父の役目だ。
祖父は居間の椅子に背筋を伸ばして座り、几帳面な性格の滲んだ美しい文字を書いていく。普段は温厚な祖父だが、なぜだか送り状を書くときだけは、かわいい孫であっても一切の邪魔を許さない。肩をちょんとつついただけでも大声で叱られてしまうので、幼い私はその様子をジッと静かに見守っていたのだった。
しかし残念なことに、その美しい字が娘たちに遺伝することはなく、私の母は字が汚い。汚いというとそれも違うような気がする。なんというか、彼女の頭には妙なフォントが設定されているらしい。細長くて、字と字の間隔がない。ちいさなチワワがシャワールームに敷き詰められて、一斉にびしょぬれにされて震えているような字である。誰の字を真似してこんな字を書くようになったのかはわからないが、母も自分の字が妙なのは自覚しているらしく、署名を求められるたび、誰かにくすぐられているように身を捩って、恥ずかしそうに笑いながら書いている。
「字はその人の性格を表す」という言説は定期的に流行る。私はそれについて、だいたいその通りだと思っている。母の書く字には、母の人付き合いを好まないところや、神経質なところが少なからず出ているような気がする。ただ、私は“字”そのものというよりは“字を書く姿”を見たほうがわかりやすいような気がしている。
人に見られながらなにかを書くというのは、なかなかプレッシャーのかかる場面だ。間違えてはいけない書面ならなおさらのこと、何千回も書いてきたはずの自分の名前がなんだかいつもと違うような気がしてくるし、“山”という漢字ひとつ書くにしても、棒の数が疑はやるわしくなるような感覚がある。
ここまで読んで「じゃあお前はどうなんだ」と言いたい人もいるだろう。私の字といえば、バイト先のマネージャーに「人に読ませる気がない」と評されたことがあるほどの逸品だ。汚い。いや、やはり汚いと言われると心外だ。
私は小学生の頃からアルファベットの筆記体に憧れていた。昔の学校では筆記体も教えていたらしいが、私の時代では、すでに筆記体は授業内容に含まれていなかった。教科書のいちばん後ろにおまけ程度に載っている筆記体を、なんども鉛筆でなぞって練習してはみたものの、なかなかかっこよく書くことができなかった。
早々にアルファベットを諦めた私は、自分が使える文字の範囲で筆記体っぽいものを作ろうと考えた。そうして生まれたのが私の書く日本語である。草書とは違う、一応習った通りに書いた字の先っぽ同士がなんとなくくっついているだけの、例えるならばムカデ人間のような、遠目から見ればオシャレに見える人もいるかもしれない文字。
ひとりで書いている字もそんな具合だから、人前で書くとなると「本番に弱い性格」も相まって、かなりひどいことになってしまう。なぜだかわからないが、私は文字を書いているのを見られていると「怒られる」ような気がしてならない。それは文字の書き方に関して怒られるということでもなく、ただ漠然と「存在が怒られる」という予感だ。書いているときに限らず、とにかく「静かに見守られている時間」が大の苦手なのだ。
レジでお釣りを財布にしまう時間、打ち合わせがおわって資料をカバンにしまう時間、自分だけなにかを食べる時間、そして受付で名前や住所を記入する時間。はやく終わらせてこの場から立ち去ろうと焦っているうちにどんどん挙動がおかしくなって、結局あらぬ方向に小銭を飛ばしたり、資料がクシャクシャになったり、マカロニが口から飛んでったり、存在しない文字を作ったりとろくなことにならない。
見守られている間の所作や書く文字で、もしや自分が突貫工事で作ったおしとやかさが見破られてしまうのではないかと不安に駆られ、指摘される前に早々にボロを出してしまう。まるで、事がバレる前に証拠のない余罪を自供しはじめる容疑者のようだ。
このあいだも習い事の先生の前で、先生宛のサインを書くことがあった。目の前で先生が私の手元を見つめている緊張感に耐えられなかった私は、なぜかミミズがのたうち回るような筆跡で「先」の字に一本余計な線を書き足してしまった。この歳になって先の字を間違えるとは情けない。どうしてこんなに逃げ出したくなるのだろう。どうしてこんなに、惨めなような気がしてしまうのだろうか。
ただ自分の字が汚い理由について考えていたつもりが、考えれば考えるほど、これまでのありとあらゆることが「字を書く」という行為に抽出されているのだと思い至る。
人が黙っていると怒っているような気がするとか、あまり他人に叱られることがなかったから耐性がないとか、小1の頃近所の犬をからかっていたら飼い主のおばさんに「やめてね」と優しく注意されたことを今でも気にしているとか、そういう幼少期からの大きな流れの結果が私の字である。私はときどき「べつに聞こえてなくてもいいや」と思いながら話すときがある。きっとそれも文字に出ているのだと思う。
そんな壮大なことを考えていたら、バイト先で「変わったペンの持ち方してるね」と指摘された。私の字が汚いのは、ペンの持ち方が変だからなのかもしれなかった。